和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

短夜/今日の俳句 ≪第.1853号≫

2015年08月03日 06時32分51秒 | 今日の俳句
  短夜や簗にかたむく山の月
       加藤楸邨


  短夜の看とり給ふも縁かな
       石橋秀野


  みよしのの一夜短かしとりけもの
       斉藤梅子


  比良の水引きて軒端の明易し
       右城暮石


  山伏の山や雑魚寝の明易し
       中山純子



※ 短夜・明易し・明早し・明急ぐ
 春分の日から昼が長くなり、夏至になると最も夜が短くなる。この前後の明けやすい夜のことをいう。夜の短さは理屈の上からいえば、日の長いことであるが、そういう感じではなく、明けやすい心持ちに置くのである。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*今週のことば*☆※


  「無冠の友」に深謝!

  猛暑のなか 尊き配達の

  無事故、健康を祈ります

  真心で届く聖教と共に

  充実と友好の一日を!


        2015年8月3日





     ※☆*寸 鉄*☆※


会長(SGI)が体現する人間主義(ヒューマニズム)の真髄は“振る舞い”にー博士(アメリカ)。大誠実の賢者たれ

        ◇

音楽隊・鼓笛隊の行進に全国で喝采!若き妙音菩薩が人々の生命に勇気を

        ◇

「本が一番楽しみ」と獄中の牧口先生。どんな環境でも学べる。後継よ挑め

        ◇

頑張れ、就職活動の友!確信の祈りを根本に使命の道へ。執念で勝ちゆけ

        ◇

明年の首脳会議(サミット)で被爆地訪問をー広島市長。国益超え核廃絶の流れ今こそ


【聖教新聞:2015年(平成27年)8月3日(月)付】






     ※☆*北斗七星*☆※


「戦争と平和」の問題を初めて意識したのは、小学6年生の修学旅行で長崎市の平和公園を訪れた時だったと思う。友たちと一緒に見上げた「平和祈念像」の大きさと、変わったデザインに皆が驚かされた



ガイドの人は、小学生のわれわれに彫刻家・北村西望氏の作である「平和祈念像」に込められた意図を丁寧に説明してくれた。高く掲げられた右手は原爆を、水平に伸ばした左手は平和をそれぞれ表していると



「平和祈念像」の表情は戦争犠牲者の冥福を祈っている、との話を聞いた時には祈念像に向かい手を合わすべきかどうか迷ったように思った。「平和祈念像」が「戦争を二度と起こしてはならない」と祈る仏像のように映ったのだろうか



6日は広島平和記念日、9日は長崎平和記念日、15日は終戦記念日。学徒出陣で戦争に駆り出され南方で戦った父にとって、8月は暗い過去を思い出す月だった。終戦後シベリアに抑留された女房の父親も同様だった。酷寒の収容所で亡くなった友を、凍土に阻まれ埋葬できなかった悔しさなどをよく語っていた。2人の“元兵士”に共通していたのは「戦争は国家による犯罪」という強い思いだ



戦後70年。父や義父も他界し戦地体験の語り部は身辺にいなくなった。今後は誰が平和に向けた語り部を果たしていくのだろうか。     (流)




【公明新聞:2015年(平成27年)8月3日(月)付】





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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯


(4)竜の口の法難と発迹顕本

(6)身延入山

 3度目の諫暁も幕府が用いなかったため、日蓮大聖人は鎌倉を離れることを決意し甲斐の国(山梨県)波木井郷の身延山に入られました。身延の地は、日興上人の教化によって大聖人の門下となった波木井六郎実長が地頭として治めていました。大聖人は、文永11年(1274年)5月に身延に入られました。しかし、大聖人の身延入山は、決して隠棲(俗世間から離れて静かに住むこと)などではありませんでした。
 身延において大聖人は「撰時抄」「報恩抄」をはじめ、数多くの御書を執筆されて、大聖人の仏法の重要な法門を説き示されました。特に、三大秘法(本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目)を明らかにされました。
 さらに、法華経の講義などを通して、未来の広布を担う人材の育成に全力を注がれました。
 また、各地の男性・女性の在家信徒に対し、数多くの御消息(お手紙)を書き送って励まされています。一人ひとりが強盛な信心を貫き、人生の勝利と成仏の境涯が得られるよう、懇切に指導・激励を続けられました。


  

小説「新・人間革命」

2015年08月03日 03時57分53秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月1日(土)より転載】

【勝利島11】



 山本伸一は、離島本部の総会に出席する前に、離島の婦人部の代表らと懇談した。
 日本には、北海道、本州、四国、九州のほか、沖縄本島をはじめ、七千近い島が存在し、そのうち約四百の島が有人島であるといわれている。
 この語らいのなかで、彼は、離島に対する自分の思いを語っていった。
 「日本は多くの島々から成っている。したがって、国の発展や豊かさは、大都市がどれほど栄えているかで測るのではなく、離島に暮らす方々が、どれだけ恵まれた、幸せな日々を送っているかで測るべきなんです。政治にせよ、文化・教育にせよ、島の人びとの生活を守り、いかに豊かなものにしていくかが、極めて重要であると、私は考えています」
 戦後、日本は、大都市を中心に目覚ましい発展を遂げてきたが、その流れに大きく取り残されてきたのが、本土から隔絶した離島であった。その離島の開発と人びとの生活水準の向上を図るために、一九五三年(昭和二十八年)に「離島振興法」が制定、公布された。
 この法律は十年間の時限立法で、改正、延長を重ね、港湾や道路の整備、学校や診療所、電気や簡易水道の設置等が進められてきた。
 しかし、高度経済成長期に入ると、本土での労働力需要が高まり、島から働き手が失われていった。離島の過疎化が進み、農漁業など、生産活動も著しい低下を招き、学校や診療所を建設しても、地元が経済的に負担しきれないケースが続出した。
 港や道路、電気、水道などが整っても、島の産業の抜本的な振興がないのだ。結局、島は公共事業頼みとなる。
 政府の離島振興は、表面的な「本土並み」の生活環境を整えることばかりに目がいき、長期的な展望や、島民の立場からの視点が欠落していたのだ。
 もちろん、インフラの整備は必要不可欠である。同時に、その島の特色を生かし、自立するための基幹産業振興の手助けをすることこそ、政府の担う重要な役割といえよう。