和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年07月31日 16時28分59秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月31日(金)より転載】

【勝利島10】

 山本伸一は、沖縄のメンバー一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。
 「私は、沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。
 誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、幸福を創造していくことはできない。そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになってしまう。実は、そこに不幸の要因があるんです。
 仏法は、人を頼むのではなく、“自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ!”という自立の哲学なんです。自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!
 いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第二章が始まったということです。発迹顕本です。私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです。おめでとう!
 では、記念に写真を撮りましょう。そのために来ていただいたんです」
 記念撮影は、四グループに分かれて行われた。伸一は、先に女性二グループと、続いて男性二グループと記念のカメラに納まった。
 撮影が終わると、彼は尋ねた。
 「皆さんは、全員、今晩の離島本部の総会には、参加されるんですね」
 「はい!」と元気な声が、はね返った。
 「私も、出席させていただきますので、また、お会いしましょう」
 歓声があがり、笑みの花園が広がった。
 伸一は、創価婦人会館を出て歩き始めた。本部周辺の道には、離島本部の総会に参加するメンバーが行き交っていた。彼は、会う人ごとに、声をかけ、あいさつを交わした。
 「遠いところ、ご苦労様です」「総会には伺います」「ようこそ。お名前は?」……一瞬の出会いが、一言の励ましが、その人の一生の原点になることがある。励ましの声をかけることは、心に光を送ることだ。


■語句の解説
 ◎発迹顕本/「迹を発いて本を顕す」と読む。仏が仮の姿(垂迹)を開き、その真実の姿、本来の境地(本地)を顕すこと。
                                                           

                          

日焼/今日の俳句 ≪第.1850号≫

2015年07月31日 03時51分56秒 | 今日の俳句



日焼して笑ひ羅漢と向き合ふ
        広瀬直人



利き腕の左太くて日焼せる
        山本浩子


塩田夫婦焼け極まり青ざめぬ
        沢木欣一


泡盛に島の恋うた日焼翁
        大東晶子


老漁夫の日焼けの首に貼り薬
        高崎トミ子

 

※ 日焼・潮焼
 夏の紫外線の強い日光に浴すと顔・手・足など露出している部分が赤みを帯びる。これが日焼け。小麦色に焼けた姿は健康的で美しいが、最近では紫外線を嫌って日焼けしないような工夫をする人も増えた。俳句では「日焼子」「日焼妻」などとも用いる。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※


  広布の宝・未来部よ

  夢に向かって

  徹して学び抜け!

  青春の誓いを燃やし

  鍛えと成長に夏に!


        2015年7月31日





     ※☆*寸 鉄*☆※


御書「ついには・たのしかるべし」。信心は無限の希望。逞しき楽観主義で

        ◇

常に向上する生涯青春の人は若々しい。頑張れ、創大通教生!学は人生の光

        ◇

確固たる目的をもたない精神は自分を見失うー哲人(モンテーニュ)。青年よ広布の大願へ進め

        ◇

不慮の事故(エスカレーター)増加。歩行せず手すり利用を推奨ー消費者庁。余裕ある行動を

        ◇

過労死防止の大綱が閣議決定。実効性ある施策急げ。働く側の視点に立ち





     ※☆*わが友に贈る*☆※


神奈川県のある創価体験談大会で、未来部の友が登壇した。もともと人と話すのが苦手で、小学生の時には不登校に。母に連れられて行く地区の会合だけが唯一、身構えずに足が向く場所だった



地区のおじさん、おばさんは、大げさなくらい、彼の話にうなずき、拍手してくれる。勇気をもらい、唱題に励んだ。彼は不登校を乗り越える。それが信仰の原点になった



彼の一家にも、確たる原点があった。半世紀以上前、奄美の徳之島で祖父母が入会。無理解ゆえの中傷に負けず、信仰を貫いてきた。1963年、池田名誉会長が徳之島を訪問。祖父母を激励し、生後間もない母の頭をなでてくれた



広布3世代目の彼は、中学でバスケット部の部長を務め、高校2年の今、首都圏高等部の合唱団に所属し、人に希望を送る側に立つ。彼が語る広布の継承のドラマに、同志は万雷の拍手を送っていた



師匠の励まし、家族の団結、そして同志の応援。その一つでも欠けていたら、伸び伸びと広布の庭で育つ、今の彼はないかもしれない。「未来部の友は、大人以上に純粋に、『正義』と『真実』を見抜く鋭い眼を持っている」と名誉会長。関わる大人たちが真剣な心で、世界の未来を担う子らと共に鍛え合う“躍進月間”としたい。     (蹴)

【聖教新聞:2015年(平成27年)7月31日(金)付】






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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯


(4)竜の口の法難と発迹顕本

(前号より)

 同年9月10日、大聖人は幕府から呼び出されて、侍所の所司(侍所の軍事・警察を担当する役所、所司は次官のこと。長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱(平頼綱)の尋問を受けました。
 この時、大聖人は 平左衛門尉に対して仏法の法理のうえから、国を治めていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諌められました。
 2日後の文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉が武装した兵士を率いて草庵を襲い、大聖人は謀反人(時の為政者に謀反する人)のような扱いを受けて捕らえられました。この時、大聖人は、平左衛門尉に向かって「“日本の柱”である日蓮を迫害するなら、必ず自界叛逆・他国侵逼の二難が起こる」と述べて、強く諫暁されました(第2回の国家諫暁)
 大聖人は、夜半に突然、護送され、鎌倉のはずれにある竜の口に連行されました。平左衛門尉らが、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から“まり”のような大きな光りものが夜空を北西の方向へと走りました。兵士たちはこれに恐れおののいて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)
 この法難は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義を持つ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹(仮の姿)を開いて、凡夫の身に、生命のそなわる本源的な、慈悲と智慧にあふれる仏(久遠元初の自受用報身如来)という本来の境地(本地)を顕されたのです。
 これを「発迹顕本(迹を発(ひら)いて本を顕す)」といいます。(教学入門173ページ参照)。
 この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としての御振る舞いを示されていきます。そして、万人が根本として尊敬し、帰依していくべき御本尊を図顕されていきました。(次号へ続く)

7月30日(木)のつぶやき

2015年07月31日 01時44分44秒 | 今日の俳句

小説「新・人間革命」

2015年07月30日 19時08分22秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月30日(木)より転載】

【勝利島9】

 離島本部総会に参加する沖縄の同志は、那覇に集まり、「沖縄支部長会」の参加者と合流し、朝、飛行機で東京へ向かった。
 メンバーのなかには、船で石垣島や宮古島に出て、そこから飛行機で那覇まで来て、一泊した人もいた。
 沖縄の同志は、羽田空港から五台のバスに分乗し、正午過ぎ、学会本部に到着した。
 ボストンバッグを手にしたメンバーが、学会本部の門を入ると、副会長の青田進や山道尚弥をはじめ、多くの幹部が左右に並び、大拍手で一行を歓迎した。
 「こんにちは! お疲れさまです!」
 その励ましの言葉に、疲れは吹き飛んだ。
 沖縄支部長会は、学会本部の師弟会館で開催された。皆、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊に、沖縄広布を誓い、厳粛に祈りを捧げた。
 婦人部長の藤矢弓枝、副会長の関久男・秋月英介があいさつに立ち、遠路、学会本部までやって来た労をねぎらい、沖縄の新しい出発を祝福した。
 そのころ山本伸一は、六月にオープンした信濃町の創価婦人会館(後の信濃文化会館)にいた。支部長会終了後、沖縄の同志をここに招いて、一緒に記念撮影をしようと、一足先に来て、待っていたのである。
 メンバーは、支部長会を終えると、担当の幹部から、創価婦人会館に移動するように言われた。本部から徒歩二、三分のところにある、茶系のタイル壁に緑の屋根瓦の瀟洒な二階建てが、その建物であった。
 館内に入ると、伸一が満面に笑みを浮かべて、姿を現した。
 「遠いところ、ようこそいらっしゃいました! お待ちしていました。
 皆さんは、沖縄の平和のために、広宣流布に立ち上がり、苦労し、苦労し抜いて、戦ってこられた。大使命をもった地涌の菩薩であり、広布の大功労者です。私は、仏を敬う思いで、迎えさせていただきます。それが、人間として、仏法者として当然の道です」
                                                                 

汗/今日の俳句 ≪第.1849号≫

2015年07月30日 06時05分07秒 | 今日の俳句
汗かきて草鞋はきたるすがたかな
        斉藤茂吉



汗の身のわれをわすれて飯食へる
        瀧春一


ちりりとろりと舌を刺す汗の記憶
        柴田いさを


汗しゆく山に一基の墓あれば
        上村占魚


汗ばみて余命を量りゐたらずや
        石田波郷

 

※ 汗・汗ばむ・玉の汗
 夏の汗は耐え難い。じっと動かずにいても汗がにじむ。大粒で、したたるように激しく出る汗を玉の汗といい、「汗みどろ」は全身汗びっしょりの状態。「汗にほふ」「汗ばむ」、みな暑苦しい。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※



  事故が多発する夏。

  水難や火災に注意!

  車の長時間運転も

  無理なく安全第一で。

  強き祈りで油断を排せ!


        2015年7月30日





     ※☆*寸 鉄*☆※


「日蓮と同意ならば地涌の菩薩」御書。民衆の幸福へ!尊き使命の人生飾れ

        ◇

猛暑の中、会館を厳護する牙城会・王城会・宝城会に感謝!福徳は三世不滅

        ◇

汝自身が力をつけよ。汝自身が悔いなき信念持てー恩師。まず幹部(リーダー)が実践

        ◇

教員の7割、報告書作成や苦情対応に負担感と。改善急げ。子どもの為に

        ◇

政府機関の2割、帰宅困難者の対応未定。災害は忘れた頃に。備え懈らず

【聖教新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】






     ※☆*北斗七星*☆※


沖縄県では37年まえのきょう、自動車が右側通行から左側通行となり、日本本土と同じになった。太平洋戦争末期の沖縄戦後、米国により右側通行に変えられていたのだ。それは本土復帰後も6年間も続いていた



沖縄の戦禍を物語る出来事の一つだ。その沖縄戦では大勢の若者が犠牲となった。「戦場に動員された十三歳から十九歳までの中等学校生徒、師範学校生徒のほぼ半数が、戦場で命を奪われたことになります。これが当時のハイティーンの学生にとっての沖縄戦でした」



元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子さんが『ひめゆりの少女』でつづっていた。同書に、米軍に追い詰められ、絶壁の上で死を覚悟した少女たちの本音の叫びであった。「もう一度、弾の落ちて来ない空の下を、大手を振って歩きたい!」



「青春を謳歌することもなく戦場に倒れた、ひめゆりを含む若い学徒たち」(宮城さん)。この言葉を目にしたとき、児童文学作家の石井桃子さんが『エッセイ集』に記していた次の一文を思い出した



「ゆたかに物をかんじ、のび、力を貯えなくてはならない時代に、今度の戦争を経験した人たちの不幸を、私は何にもたとえることができない。失われは成長期は、もうとりもどすことができない」



若者が青春を謳歌できる社会であらねばならない。    (六)


【公明新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】






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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯


 (前号より)

(4)竜の口の法難と発迹顕本

 文永5年(1268年)、蒙古(「蒙古」は歴史的な呼称であり、当時のモンゴル帝国を指す)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
 そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11ヵ所に書状(十一通御書)を送り、予言の的中を明示するとともに、諸宗の僧らに公の場での法論を迫りました。
 しかし、幕府も諸宗も、大聖人のはたらきかけを黙殺しました。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧に向かっていったのです。
 このごろ、蒙古の調伏(敵などを打ち破り服従させること)の祈祷を行う真言僧が影響力を増してきました。また、真言律宗の極楽寺の良観(忍性)が、幕府と結び付いて大きな力を強めていました。
 大聖人は、民衆と社会に悪影響を与えるこれら諸宗に対しても、一歩も退かず破折を開始します。
 文永8年(1271年)夏に大旱魃(長期間の日照り)が起こった時、良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
 それは、もし良観が7日のうちの雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
 その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は祈祷の7日延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
 しかし、良観は自らの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちにはたらきかけて、権力による弾圧を企てました。
 良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。(次号へ続く)

小説「新・人間革命」

2015年07月30日 04時50分03秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月29日(水)より転載】

【勝利島8】

 高見福安の言葉は、語るにつれて熱を帯びていった。
 「私は今、自分の姿勢を振り返って、深く反省しています。求道心を失い、先生に甘えていたことに気づき、申し訳ない思いでいっぱいなんです」
 集っていた沖縄の首脳幹部たちは、高見に視線を注ぎながら、大きく頷いた。
 沖縄の婦人部長の上間球子が口を開いた。
 「確かに、その通りですね。私たちの方から、お伺いすべきだと思います。せめて代表だけでも、学会本部に集わせていただくように、お願いしてみてはどうでしょうか。
 もちろん、本部に行ったからといって、山本先生のお忙しさを考えると、お会いしていただけるとは限りません。でも、最も大切なことは、師匠を求め抜こうとする心ではないでしょうか。その一念があってこそ、先生のお心もわかり、あらゆるものを吸収していくことができるのだと思います」
 高見は、「そうだ。そうだね」と繰り返しながら、心に誓っていた。
 “御書には、「法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげ(励)むを・まこと(真)の道心者とは申すなり」(一五〇五ページ)と仰せだ。山本先生は何度となく沖縄に足を運び、命を削って指導してくださった。しかし、私たちは、ますます信心に励み、求道心を燃やすのではなく、ただ、先生のお出でを待つだけの信心になってしまっていた。この惰性的な生き方を、ぶち破るんだ!”
 彼は、ひときわ大きな声で言った。
 「本部に集わせていただきましょう! そして、沖縄の新しい出発をしましょう!」
 皆の目が光った。
 高見は、学会本部と連絡を取り、十月七日、離島本部総会の前に、広布第二章の支部長・婦人部長、男女青年部の代表による第一回「沖縄支部長会」の開催が決まったのだ。
 山本伸一からも、「無理はなさらないように。皆さんとお会いできることを、心から楽しみにしています」との伝言が届いた。                         
                                                                      

端居/今日の俳句 ≪第.1848号≫

2015年07月29日 06時29分05秒 | 今日の俳句
湖(うみ)を見て端居ごころを尽くしけり
        西本一都


端居してかなしきことを妻は言ふ
        村山古郷


父とわれありしごとくに子と端居
        大橋櫻坡子


置物の如くに置かれ夕端居
        村越化石


行く雲や家族集まり端居して
        中山純子

 

※ 端居・夕端居
 室内の暑さを避けて、縁先や風通しの良い端近に座を占め、庭の木々や草花などを眺め涼をとることをいう。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※



  朗々たる勤行・唱題で

  きょう一日を出発だ!

  豊かな生命力と

  智慧を湧かしながら

  リズム正しい生活を!


        2015年7月29日





     ※☆*寸 鉄*☆※


会長(SGI)は対話で人間精神を開き高めるー首相(イタリア)。心耕す友との語らいを我らも

        ◇

夏季フリー研修がたけなわ。学会魂を心肝に染める好機(チャンス)。躍進の英気養い

        ◇

強盛な信心の“一人”の力で広布は伸展ー恩師。本気の決意は周囲へ波動

        ◇

「法華を識る者は世法を得可きか」。現実の中で勝て。智慧と行動の賢者と

        ◇

子どもの誤飲事故が多発と。医薬品、ボタン電池等は放置せず、厳重管理を







     ※☆*名字の言*☆※


はがきの裏面いっぱいに、色鮮やかなアジサイが描かれている。隙間を埋めるように「会うたびに、いつも元気をもらっています」との文字ーー



この絵手紙を受け取ったのは、車いす生活の壮年。大病の後遺症のため、左半身は動かない。それでも、家族や周囲の献身的な支えを得て活動し、学会の座談会でも地域のケアセンターでも、彼の周りには笑顔が絶えない



絵手紙を作って送ったのは、壮年の後輩だった。車いす生活になった先輩を昨年、訪ねて驚いた。「先輩は、きっと落ち込んでいるだろうと思ったんです。それが、ものすごく元気で……かえって自分のほうが励まされました」



後輩も2年半前、病を患った。がんの診断だった。1人暮らしで、身近に相談相手がおらず、不安で胸が押しつぶされそうになる時もあった。乗り越えることができたのは、同志の励ましだった。先輩の姿に奮起し、今年の年頭、決意を歌に託した。「病に打ち勝つ/弱い心に/負けまいと/祈りを深め/唱題す」



負けないでほしい、幸せになってほしいーーそんな思いのこもった言葉は、どんな薬よりも、人に生きる力を与える場合がある。創価の友に息づく励ましの“連鎖”の素晴らしさを、2人の壮年の振る舞いから、あらためて知った。     (側)


【聖教新聞:2015年(平成27年)7月29日(水)付】





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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯

(前号より)

(3)「立正安国論」の提出と法難

 しかし、幕府要人は大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。
 「立正安国論」の提出後まもない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、草庵を襲いました(松葉ヶ谷の法難)。
 幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
 翌、弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました。(伊豆流罪)。
 弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)。されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
 文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出ました(小松原の法難)。

(次号へ続く)

7月28日(火)のつぶやき

2015年07月29日 01時45分13秒 | 今日の俳句

小説「新・人間革命」

2015年07月28日 16時36分32秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月28日(火)より転載】

【勝利島7】

 この十月七日、離島本部の総会に先立ち、第一回「沖縄支部長会」が、学会本部の師弟会館で開催されることになっていた。
 沖縄の同志は、会長・山本伸一の訪問を強く願ってきた。伸一は、一九七四年(昭和四十九年)二月の沖縄指導では、石垣島、宮古島へも激励に訪れた。以来、四年以上、伸一の沖縄訪問はなかった。
 沖縄の首脳幹部は、県長の高見福安を中心に話し合った。幹部の一人が言った。
 「山本先生は、会長就任以来、昭和四十九年までに、七回、沖縄に来てくださった。当初は、毎年、お出でくださったし、平均してみても、二年に一回の割合で訪問してくださっている。この四年間で新しい会員も誕生しているだけに、ぜひ、近々、先生に八度目の訪問をお願いすべきではないでしょうか」
 高見は、腕を組み、頷くと、つぶやくように言った。
 「もちろん、お出でいただきたい。ぜひとも、お出でいただきたい……」
 そして、押し黙った。長い沈黙が続いた。 やがて彼は、静かな口調で語り始めた。
 「私は、考えた。“先生にお出でいただきたいと言って、ただ、お待ちしているという姿勢でいいのだろうか”と。
 “違う!”と思った。先生が、七度も来島されたということは、どこよりも、沖縄を大切にしてくださったからだ。しかし、私たちは、いつの間にか、それを、当然のことのように思い、先生に甘えてしまっていたのではないだろうか。
 世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、十日、二十日と休みをとってやって来る。
 その求道の心こそが、信心ではないだろうか! 弟子の道ではないだろうか!」
                         
                                    

跣足/今日の俳句 ≪第.1847号≫

2015年07月28日 06時35分27秒 | 今日の俳句
殉教の森音すべて跣足の音        加倉井秋を

雨ふるふるさとははだしであるく     種田山頭火

をさなごの跣の指の十つぶかな      大石 暁座 

女の素足紅むらまでに砂丘ゆく      岸田 稚魚

女塗師素足の胡座(あぐら)組み直す    千田 一路


 

※ 夏は素足で地面に降りたり、海岸の砂を踏んだりして、冷たい自然の感触を楽しむ。また屋内で素足で畳を踏むのも心地よい。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※



  天王山の夏に挑む

  受験生、頑張れ!

  努力は必ず実を結ぶ。

  最後の勝利を目指し

  今日もベストを尽くせ!


        2015年7月28日





     ※☆*寸 鉄*☆※


学会は深い哲学を基盤に人間の絆を再生してきたー教授。地域社会の柱と

        ◇

青年を中心に教学運動が活発!「行学は信心よりおこる」。求道の勇者に

        ◇

言葉よ、くすぶるな。炎と燃えるのだー詩人(ウクライナ)。広布は正義と勇気の言論闘争

        ◇

外国人に伝えたい日本語1位は「一期一会」と。出会いこそ万国共通の宝

        ◇

日本人の2割、肥満でなくても脂肪肝の危険高ー研究。賢明な生活習慣を





     ※☆*名字の言*☆※


きょう7月28日は「地名の日」、語呂合わせで「なにわの日」だそうだ。毎日が何かの記念日だが、創価学会にも各部、各地にたくさんの記念日がある



福岡市のある地区は、毎月19日に勤行会を行い、今月で500回目を数えた。淵源は1971年(昭和46年)2月19日、池田名誉会長が同地区内を訪れたこと。毎月の勤行会で、その意義を確認し、師弟の精神を学び合ってきた



地区の会場を、97歳の支部副婦人部長が提供している。今月の勤行会で、その思いをつづった文を娘さんが代読した。「今この時に、池田先生と奥様がお元気でいてくださることが、何より一番有り難くうれしく胸がいっぱいです」「千回を目指して命ある限り戦ってまいります」。四十数年で、地域の学会理解は確実に伸展。友人を招くセミナーに、地域世帯の約4分の1が参加するまでになったという



名誉会長は小説『新・人間革命』につづる。「これまでの歴史も、記念日も、すべて現在の力へと変えていってこそ、意味を持つ」と。この日この時に、人生勝利の誓いを立てることで、過去も未来も輝いていく



「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(御書970頁)の御金言を胸に、巡りくる広布と自身の記念日を「誓願」の機会としたい。     (敬)





【聖教新聞:2015年(平成27年)7月28日(火)付】





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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯

(前号より)

(3)「立正安国論」の提出と法難

 大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。
 特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。
 大聖人は、この地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、「立正安国論」を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。これが大聖人による最初の国主諫暁です(第1回の国主諫暁)。国主諫暁とは、国の権力者に対して、その誤りをただし、正義を明らかにして、諌めることです。
 「立正安国論」では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じるという謗法(正法を謗ること)にあり、最大の元凶は法然が説き始めた念仏の教えにあると指摘されています。
 そして、人々が悪法への帰依を止めて正法を信受するなら、平和な楽土が現出するが、まだ起こっていない自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)の二つの災難も起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諌められました。

※  三災七難とは、?貴(飢饉による穀物の高騰)・兵革(戦乱のこと)・疫病(伝染病がはやること)の3種の災いと、星宿変怪難(星の運行や輝きが乱れること)・非時風雨難(季節外れの風雨の災害が起こること)などの7種の災難をいう。

(次号へ続く)

7月27日(月)のつぶやき

2015年07月28日 01時44分55秒 | 今日の俳句

ブログを更新しました。 『【哀れな集団】 お花畑で大行進!』
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ブログを更新しました。 『勝利島6/小説「新・人間革命」 【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月27日(月)より』
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勝利島6/小説「新・人間革命」

2015年07月27日 15時45分28秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月27日(月)より転載】

【勝利島6】

 雲の切れ間に太陽が輝いた。
 東京・信濃町の学会本部に、人びとが喜々として集って来た。たくましく日焼けし、精悍さが漂う男性も多い。
 ほとんどの人が、学会本部を訪れるのは初めてであった。門の前で、陽光を浴びた創価文化会館の大理石の壁を見上げ、微笑みを浮かべる。こぼれる白い歯が、まばゆい。
 一九七八年(昭和五十三年)十月七日午後六時から、第一回となる離島本部(後の離島部)の総会が、学会本部の創価文化会館内にある広宣会館で開催されるのである。
 北は北海道から、南は沖縄まで、約百二十の島の代表が集っての、待ちに待った離島本部の総会である。
 一番乗りは、瀬戸内海の直島のメンバー二十二人であった。前夜に出発し、フェリーと寝台特急列車に乗り、朝、東京に到着。本部周辺を見学するなどして開会を待った。
 北海道の礼文島から参加した二人は、六日の昼前に島を発ち、船で二時間半、稚内に出た。初雪が舞っていた。ここで利尻島の三人のメンバーと合流し、午後九時発の急行に乗り、札幌に着いたのは、七日の午前六時であった。そして、飛行機で東京へ向かい、正午に信濃町に到着したのである。
 日本最西端の島・沖縄県の与那国島からも婦人が一人参加していた。島から台湾への距離は百十一キロだが、沖縄の那覇までは五百十四キロ。晴天だと台湾の山々が見える。十月も日々、最高気温は二五度以上の夏日である。
 与那国島から東京に向かうには、まず船で六時間かけ、石垣島へ出る。船便は四日に一回。海が荒れれば、その船が欠航する。そして、石垣島から飛行機で一時間十五分ほどかけて那覇へ。そこから飛行機で東京へ行くというのが最も早い方法である。
 各島々の同志は、はるばると海を渡り、求道の心を燃やして、意気軒昂に学会本部へと集って来たのだ。
 大聖人は「道のとを(遠)きに心ざしのあらわるるにや」(御書一二二三ページ)と仰せである。

                         
                                    

裸/今日の俳句 ≪第.1846号≫

2015年07月27日 06時11分59秒 | 今日の俳句


ひえびえと海女の裸に裸の影       飯田龍太


裸子をひつさげ歩く温泉の廊下      高浜虚子


裸子の反り身に陰の無かりけり      北村 保


裸子や涙の顔をあげて這ふ        野見山朱鳥


はだかにて書く一行の黒くなる      小川双々子




※ 裸・素裸・丸裸・裸子
 夏は裸になってくつろぐことが多いことから夏の季とする。炎天下で働く労働者も上半身裸が多い。冷房装置が発達したとはいえ、やはり裸で嬉々として戯れる子供たちの姿こそ夏にふさわしい光景。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*今週のことば*☆※



「信頼の絆」こそ

  人生の宝なり。

  懐かしい友とも

  新しい友人とも

  さわやかに仏縁を!


        2015年7月27日





     ※☆*寸 鉄*☆※


全国でファミリー大会が賑やかに。人材を育てる人こそ人材。共に大成長

        ◇

「中部の日」万歳!「この道」貫き凱歌の日々を。広布の堅塁城に諸天舞え

        ◇

青年は何かで第一人者になる執念を持てー恩師。使命の分野のリーダーと

        ◇

「かまへて・かまへて御用心候べし」。大充実の夏は油断を排す祈りから

        ◇

地球と類似の惑星に生命存在の可能性。星空のロマン。心の宇宙も無限大







     ※☆*名字の言*☆※


徳川が豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」から今年で400年。この合戦は来年、NHK大河ドラマ「真田丸」でも描かれる



豊臣方には、勇戦の名将・真田信繁(幸村)らとは対照的に、何かと理由を挙げ、積極的な作戦を嫌う古参幹部が多かったようだ。司馬遼太郎み小説『風神の門』で、無名の一兵士に語らせた



「すこし怪我をすればあわてて退き鉦をたたくようでは、大将とはいえぬわ」「乱軍のなかにいると、味方が勝っているのやら、負けているのやらわからぬ。そのとき大将たる者が、味方の勝ちぞ掛けれ掛けれ、と声すさまじく喚いてくれれば百倍も元気が出て押してゆく」



約500世帯だった札幌の友が、10日で388世帯という圧倒的な弘教を遂げて、今夏で60年、「札幌・夏の陣」と語り継がれる戦いは、指揮を執った池田名誉会長の「戦いは、勝ったよ!」の第一声から始まった。勇気百倍の同志と共に“日本一”を勝ち取り、翌年の「大阪の戦い」に続く広布躍進の突破口を開いた



勝負はつまるところ、将の一念で決まる。”勝ちたい”という「願望」の域を超え、“勝った”とまで言い切れるほどの、深き祈りと密接な準備と行動に裏打ちされた「確信」。それが、同志の心を動かし、不可能を可能にする。     (鉄)



【聖教新聞:2015年(平成27年)7月27日(月)付】





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     日蓮大聖人の仏法

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

(2)立宗宣言

 遊学によって妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、大難が起こることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出されました。
 建長5年(1253年)4月28日の「午の時(正午ごろ)」、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えて末法の民衆を救済する唯一の正法を宣言されました。これが「立宗宣言」です。
 立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。このころ、みずから「日蓮」と名乗られました。
 この立宗宣言の際に念仏宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭(警察権や税の徴収権などを行使した幕府の役人)の東条景信は、念仏の強信者であったために激しく憤りました。
 そのため、大聖人に危害を加えようとしましたが、大聖人はかろうじて、その難を免れました。
 その後、大聖人は、当時の政治の中心であった鎌倉に出られました。名越あたり(松葉ヶ谷と伝承)に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。当時、鎌倉の人々に悪影響を与えていた念仏宗や禅宗の誤りを破折しながら、南無妙法蓮華経の題目を唱え、広められました。
 この弘教の初期に、富木常忍・四条金吾(頼基)・池上宗仲らが入信しました。