和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

在日犯罪?高槻殺人事件の犯人?

2015年08月23日 06時54分34秒 | 事件
在日犯罪?高槻殺人事件の犯人?山田浩二容疑者が帰化人で通名「金浩二」の可能性の証拠が暴露されマスゴミ報道が一斉に擁護!

落鮎/今日の俳句 ≪第.1873号≫

2015年08月23日 06時31分45秒 | 今日の俳句





  鮎落ちて水もめぐらぬ巌かな
       芝不器男


  浅間鳴りしきのふや鮎の落ちつくす
       吉田冬葉


  秋鮎をつらぬく串を炉火の上に
       石原舟月


  落鮎の串抜きてなほ火の匂ひ
       黒田杏子


  さび鮎のめつむるごとく焼かれけり
       藤木倶子





※ 落鮎・錆鮎・渋鮎・下り鮎・子持鮎・秋の鮎
 夏、清流にすみついた鮎は、二〇センチ(約七寸)以上に生長し、八月にはいると腹子をもちはじめ、その重みで動きがにぶくなる。川魚のもつ向流性ーー流れにさからって泳ぐ性質も弱まって、早い流れの瀬から水のよどんだ淵へ移り、ときどき瀬にもどったり、それをくり返すようになる。産卵期がいよいよ近づくと、アユはいっせいに下流に下りはじめる。
 九月中旬から十月にかけてが、下りの時期で、このころの秋アユを下り鮎・落鮎、また刃物のさびたような色になるので錆鮎・渋鮎ともいう。おりから台風の季節なので、下りは出水と結びつくことが多く、行動そのものの観察は至難であるので、昔からいわれる、円陣をつくって下るかどうかは不明。
 川口から五〇〇~六〇〇メートルのところで卵を産むこともあるが、淀川では四十五キロメートル上流の宇治付近、利根川では三百キロメートル以上の前橋付近で卵を産む。さらさらと水の流れる、浅い、小石に砂のまじった場所をえらぶ。産卵放精後は、少数の雌と、多数の雄がかたまって行われるが、終わった親アユは、力が尽きて川岸や遠い下流の海岸に打ち上げられて、鳥やその他の動物の餌食となる。
 まれに越冬するアユを見られるが、これら越年鮎は、多くは産卵をしない雌で、水温の高い川に多いという。
→若鮎(春)・鮎(夏)

【新訂「現代俳句歳時記/石田波郷・志摩芳次郎編」主婦と生活社より抜粋】



     ※わが友に贈る※


  新時代の扉を開くのは

  勇気ある青年だ!

  真剣な一人だ!

  「誰か」ではない。

  「自分」が決然と立て!

      2015年8月23日




     ※☆*寸 鉄*☆※


さあ友よ、我々は大いなる旅を始めるのだー文豪(ロラン)。心新たに師弟の勝利峰へ

        ◇

学会の哲学は現代社会の精神的な再生に不可欠ー博士(アメリカ)。民衆仏法の大潮流

        ◇

ドクター部、白樺の友の献身に感謝、創価の医王・薬王よ、益々の活躍祈る

        ◇

「勇んで声を発せば、自分の仏の力が増す」恩師。幹部(リーダー)から!挑戦の対話を

        ◇

高齢者が前向きに生きるには社会参加が重要と。価値創造の日々を楽しく





     ※名字の言※


1945年(昭和20年)8月、陸軍兵器学校の学徒として、広島の兵舎にいた壮年が生前、語ってくれた



終戦直後の8月24日。故郷へ帰るため、広島駅へ向かった。その途中、霧雨が降り出した。突然、周囲の景色が明るくなったように見えた。原爆で亡くなった人々の遺体から、染み出した物質が燃えているのか、赤や青の炎が上がっていた。それは“もっと生きたかった”という無念さを訴えかけるようだった。思い出すのもつらく、長く胸の内にしまっていたという



学会に入会後、8月24日が池田名誉会長の入信記念日と知った。“師匠が人生の新たな出発をされた日。ならば、自分も出発しよう”。あす迎える「8・24」は、壮年の平和を誓う日に変わった。以来、原爆が魔性の産物であることを、地域の子らに伝え続けてきた



生命の尊厳を説いた仏法に巡り合って、背負った過酷な運命を、使命に変えていった友が大勢いる。平和を築くことは、今を生きる人のためだけにあるのではない。平和を奪われ、平和を念じながら逝った人々の願いに応えることであるのだ



「創価の三代の会長に貫かれた平和の精神を求め、行動を続けたことが、私の誇り」と、壮年は笑顔で語っていた。この志を継ぐ不断の努力を誓い合いたい。(芯)



【聖教新聞:2015年8月23日(日)付】




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      教 学 入 門
     世界宗教の仏法を学ぶ

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     第1部 日蓮大聖人の仏法(1)

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[3] 一生成仏と広宣流布

  (1) 一生成仏

 8月23日
(前号より)
 成仏とは、現在の自分と全く異なった特別な人間になるとか、死後に次の一生で現実世界を離れた浄土に生まれるなどということではありません。
 御書には成仏の「成」について「成(じょう)は開く義なり」(753頁)とあります。成仏とは、自身の内に具わる仏の生命境涯(仏界)を開くことにほかなりません。
 「凡夫」すなわち普通の人間である私たちが、その身のままで、自身に仏の生命境涯を開き顕せるのです。それゆえ、「凡夫成仏」とも「即身成仏」ともいいます。
 成仏とは、他の世界に行くことではなく、あくまでもこの現実世界において、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいうのです。
 御書に「桜梅桃李の巳巳の当体を改めずして、無作三身と開見す」(御書784頁、通解ーー桜、梅、桃、李がそれぞれの特質を持つように、私たちもそれぞれの特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると開き顕れるのである=「無作三身の仏」とは何も飾らないそのままの姿で仏の特質をすべて具えている真実の仏のこと) と仰せのように、成仏とは、自分自身が本来持っている特質を生かしきって、自身をもっとも充実させていく生き方をすることです。
 すなわち、成仏とは、生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮して、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいいます。
 また、成仏とはゴール(終着点)に到達するということではありません。妙法を受持して、悪を滅し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が仏の境涯なのです。
 間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのです。


  






           

8月22日(土)のつぶやき

2015年08月23日 01時45分37秒 | 今日の俳句