【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月16日(水)より転載】
【勝利島48】
やがて母島への本格的な帰還が始まり、旧島民や新しい人たちが島に移住してきた。そのなかに学会員もいた。
勝田喜郎は、“この島で広宣流布の大きな波を起こしていくには、皆が集う会場が必要だ”と考えた。本土から大工を呼んで、家を新築することにした。ここを拠点に、母島広布は進んでいくことになる。
青く澄み渡る珊瑚礁の海が光る。空も吸い込まれそうなほど青い。生い茂る椰子やパパイヤ、バナナの葉が風に揺れる……。
一九七四年(昭和四十九年)五月四日――初めて小笠原の父島を訪れた離島本部の幹部らは、その南国情緒豊かな美しい景観に目を奪われた。とても、ここが日本の、しかも、東京都であるとは思えなかった。
到着後、彼らは、島の主なメンバーと打ち合わせをし、夜には指導会を行った。
会場は、浅池隆夫の家である。父島を中心に二十人余の参加者が集って来た。
この指導会の席上、離島本部長の三津島誠司から、小笠原大ブロックの結成が発表された。大拍手が轟いた。大ブロック長・担当員には、浅池隆夫と妻の栄美が就いた。
また、三津島から、会長・山本伸一の伝言が紹介された。
「御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています」との、伸一の言葉を聞くと、参加者の目は涙に潤み、決意が光った。
三津島は訴えた。
「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。
どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」
【勝利島48】
やがて母島への本格的な帰還が始まり、旧島民や新しい人たちが島に移住してきた。そのなかに学会員もいた。
勝田喜郎は、“この島で広宣流布の大きな波を起こしていくには、皆が集う会場が必要だ”と考えた。本土から大工を呼んで、家を新築することにした。ここを拠点に、母島広布は進んでいくことになる。
青く澄み渡る珊瑚礁の海が光る。空も吸い込まれそうなほど青い。生い茂る椰子やパパイヤ、バナナの葉が風に揺れる……。
一九七四年(昭和四十九年)五月四日――初めて小笠原の父島を訪れた離島本部の幹部らは、その南国情緒豊かな美しい景観に目を奪われた。とても、ここが日本の、しかも、東京都であるとは思えなかった。
到着後、彼らは、島の主なメンバーと打ち合わせをし、夜には指導会を行った。
会場は、浅池隆夫の家である。父島を中心に二十人余の参加者が集って来た。
この指導会の席上、離島本部長の三津島誠司から、小笠原大ブロックの結成が発表された。大拍手が轟いた。大ブロック長・担当員には、浅池隆夫と妻の栄美が就いた。
また、三津島から、会長・山本伸一の伝言が紹介された。
「御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています」との、伸一の言葉を聞くと、参加者の目は涙に潤み、決意が光った。
三津島は訴えた。
「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。
どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」