和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年09月16日 10時52分12秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月16日(水)より転載】

【勝利島48】

 やがて母島への本格的な帰還が始まり、旧島民や新しい人たちが島に移住してきた。そのなかに学会員もいた。

 勝田喜郎は、“この島で広宣流布の大きな波を起こしていくには、皆が集う会場が必要だ”と考えた。本土から大工を呼んで、家を新築することにした。ここを拠点に、母島広布は進んでいくことになる。

  


 青く澄み渡る珊瑚礁の海が光る。空も吸い込まれそうなほど青い。生い茂る椰子やパパイヤ、バナナの葉が風に揺れる……。

 一九七四年(昭和四十九年)五月四日――初めて小笠原の父島を訪れた離島本部の幹部らは、その南国情緒豊かな美しい景観に目を奪われた。とても、ここが日本の、しかも、東京都であるとは思えなかった。

 到着後、彼らは、島の主なメンバーと打ち合わせをし、夜には指導会を行った。

 会場は、浅池隆夫の家である。父島を中心に二十人余の参加者が集って来た。

 この指導会の席上、離島本部長の三津島誠司から、小笠原大ブロックの結成が発表された。大拍手が轟いた。大ブロック長・担当員には、浅池隆夫と妻の栄美が就いた。

 また、三津島から、会長・山本伸一の伝言が紹介された。

 「御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています」との、伸一の言葉を聞くと、参加者の目は涙に潤み、決意が光った。

 三津島は訴えた。

 「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。

 どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」







   

小説「新・人間革命」

2015年09月04日 20時42分15秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月4日(金)より転載】

【勝利島39】

 創価学会の組織は、なんのためにあるのか――人びとに真実の仏法を弘め、教え、励まし、崩れざる幸福境涯にいたるよう手を差し伸べ、切磋琢磨し合っていくためにある。

 したがって、最も苦しく、大変ななかで信心に励んでいる人ほど、最も力を込めて激励し、元気づけていかねばならない。それぞれの島に住む学会員は多くはないが、大都市にばかり目が向き、各島に光を当てる努力を怠るならば、万人の幸福を築くという、学会の使命を果たしていくことはできない。

 山本伸一は、かねてから、島の同志が、希望に燃え、勇気をもって、はつらつと前進していくための、励ましの組織をつくらねばならないと考えていた。

 学会が「社会の年」とテーマを定めた一九七四年(昭和四十九年)を迎えるにあたり、彼は首脳幹部に自分の意見を伝えた。そして検討が重ねられ、七四年の一月十四日に、離島本部の結成が発表されたのである。離島本部長に就いたのは、三津島誠司という、学会本部に勤務する熊本県出身の青年であった。

 その十一日後の、一月二十五日のことである。鹿児島県の九州総合研修所(後の九州研修道場)に、奄美大島や沖永良部島、徳之島、種子島、与論島など、九州地方の島々から代表五十人が集い、離島本部の第一回代表者会議が開催された。

 研修所に滞在していた伸一は、その前日、学会本部首脳や九州の幹部、離島本部の関係者らと、離島での活動について協議した。

 この席で彼は言った。

 「明後日、私は香港に出発するので、その準備のため、明日の離島の代表者会議には出席できません。しかし、出迎え、見送りをさせていただきます。皆、村八分などの迫害を受けながら、苦労し抜いて、各島々の広宣流布をされてきた、尊い仏子の皆さんだもの。

 全員が、まぎれもなく、日蓮大聖人の本眷属たる地涌の菩薩です。奇しき縁のもとに、それぞれの島に出現し、大聖人の命を受け、広宣流布の戦いを起こされた方々です」



 

小説「新・人間革命」

2015年09月03日 17時16分40秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月3日(木)より転載】

【勝利島38】

 伊豆大島の同志は、目覚ましい勢いで、弘教を加速させていった。

 大火から八カ月後の一九六五年(昭和四十年)九月には、待望の伊豆大島会館の起工式が行われた。

 大火前、島の学会世帯は五百世帯ほどであった。しかし、この年の十二月には八百数十世帯となり、翌六六年(同四十一年)一月には、遂に念願の千世帯を達成したのである。

 皆が奮い立つ時、新しい前進が始まる。

 皆が心を合わせる時、新時代が開かれる。

 一月二十一日、晴れて会館の落成式が挙行された。大島空港に近い、小高い丘の上に立つ会館の広間は、歓喜の笑みの花で埋まった。

 会館建設とあわせ、わが家を新築できたという人もいた。新しい街づくりに奔走し、地域に大きく貢献した人もいた。

 皆の最高の喜びは、会館の落成とともに多くの新会員が誕生し、島の随所に妙法の希望の灯がともったことであった。

 この法城は、大火の悲しみのなか、涙を拭って立ち上がった同志にとって、人生と広布の勝利の記念塔となったのである。

 山本伸一は、わが同志の奮闘を心から賞讃し、万感の思いを込めて祝電を打った。

 「伊豆大島会館の落成、まことにおめでとうございます。仲良く、楽しく、ここに集まって、幸せを築いてください」

 その言葉に人びとは、この一年の来し方を思い、目頭を熱くするのであった。

 一人ひとりが幸せに――彼の願いは、それ以外に何もなかった。そのための信心であり、学会であり、広宣流布である。迫害も、試練も、修行も、永遠の幸せを築き上げるための鍛錬なのだ。

 さらに二十六日には、伊豆大島支部が新設され、約二千人が集い、支部結成大会が開催されたのである。

 御聖訓には、「わざは(禍)ひも転じて幸となるべし」(御書一一二四ページ)とある。大島の宝友は、大火という災いを乗り越え、皆が自身の幸福の基盤を確立していったのである。




 

小説「新・人間革命」

2015年08月31日 12時10分46秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月31日(月)より転載】

【勝利島35】

 山本伸一が、台風二十号による種子島、屋久島等の被害状況や、島の学会員の奮闘の様子を聞いたのは、香港の地であった。
 彼は、香港から、鹿児島県の幹部と連絡を取り、直ちに被災地へ激励に行くよう依頼するとともに、伝言を託した。
 家が壊れるなどして、途方に暮れていた同志は、幹部がすぐに来てくれたことに感動した。そして、「必ず変毒為薬できるのが仏法です」との伸一の伝言に勇気が湧いた。奮起したメンバーは、復興の先頭に立った。また、自身と地域の宿命転換を願い、果敢に仏法対話を開始した。弘教は大きく進んだ。
 十月下旬、東京へ来た鹿児島県の幹部から、その報告を受けた伸一は言った。
 「本当に大変だったね。人生には、台風などの自然災害に遭うこともある。ある意味で、苦難や試練が、次々と押し寄せてくるのが人生といえるかもしれない。大事なことは、その時に、どうしていくかなんです。
 “もう、終わりだ……”と絶望してしまうのか。“こんなことで負けてたまるか! 必ず乗り越えてみせる!”と決意し、立ち上がることができるのか。
 実は、信心することの本当の意味は、どんな苦しみや逆境にも負けない、強い自分をつくっていくことにこそあるんです。
 被災された皆さんは、試練に負けずに敢然と立ち上がり、周囲の人びとに、希望の光、勇気の光を、送り続けてほしいんです」
 さらに伸一は、種子島、屋久島の同志への激励として、袱紗を託したのである。
 鹿児島県の幹部は、それを持って島を訪れた。一人ひとりに山本会長の思いを語って励まし、袱紗を手渡していった。島の幹部に委ねることもできたが、それでは、最も大事なものが、抜け落ちてしまう気がしたのだ。
 皆の感激は、ひとしおであった。
 島の同志が受け取ったのは、自分たちを思いやる、“伸一の真心”であった。
 心と心が触れ合い、勇気が生まれ、誓いが生まれ、師子が生まれる。

■語句の解説
 ◎変毒為薬/「毒を変じて薬と為す」と読む。苦しみの生命(毒)が、そのまま幸福の生命(薬)に転ずる、妙法の大功力を表した言葉。     



小説「新・人間革命」

2015年08月27日 11時34分40秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月27日(木)より転載】

【勝利島32】

 十島村も三島村も、毎年、台風の通り道となる。石切広武は、地区部長に就任した時から、台風の被災が少なくなるように、島の一人ひとりが幸せになるように、島の広宣流布が進むようにと、懸命に祈り続けてきた。
 当時、十島、三島の両村の主な産業は、農業と漁業である。島での仕事は限られている。若い人の大多数は、中学校を出ると島を離れていく。都会生活への強い憧れもある。本土に行ったまま、戻らぬ人も多い。人口は、減少の一途をたどっていた。
 そのなかで学会員は、強く、明るく、島の繁栄のために頑張り抜いていたのだ。
 周囲の人たちに信心を反対されながらも、笑顔で包み込むように接し、着実に理解者を広げているのである。石切は、その姿に、心が洗われる思いがした。
 硫黄岳が噴煙を上げ、“鬼界ケ島”とも呼ばれる三島村の硫黄島にも、島の人たちの幸せを願って信心に励む婦人の姿があった。夫が病弱で貧しい暮らしのなか、“必ず信心の実証を示し、広宣流布を進めるのだ!”と、懸命に働き、学会活動に励んでいた。
 竹の切り出し作業や、男性に交じって土木工事にも精を出した。新しい衣服も買えず、着物をワラ縄で縛って労作業に励んだ。彼女が仏法の話をしても、皆、蔑み、耳を傾けようとはしなかった。しかし、着実に生活革命の実証を示すにつれて、学会への理解が深まっていった。そして、硫黄鉱山が閉鎖され、不景気な時代が続くなかで、彼女の一家は、立派な家を新築するのだ。
 同じ三島村にある竹島には、かつて他宗の僧をしていた学会員もいた。島で唯一の僧が学会の信心を始めただけに、人びとの戸惑いも、反発も大きかった。しかし彼は、“なぜ、僧であった自分が学会に入会したのか”を通して、日蓮大聖人の仏法の正しさ、偉大さを、厳然と訴え抜いていったのだ。
 石切は、今まさに、地涌の菩薩が躍り出ているのだと、心の底から実感するのであった。
 広宣流布の時は、到来しているのだ。


     



小説「新・人間革命」

2015年08月24日 19時07分54秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月24日(月)より転載】

【勝利島29】

 山本伸一から石切広武に届いた葉書には、「上野殿御返事」の一節が認められていた。
 「或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・も(燃)へた(立)つばかりをも(思)へども・とを(遠)ざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たい(退)せず信ずるなり」(御書一五四四ページ)
 石切は、“何があろうが、一喜一憂することなく、黙々と信心に励もう。断じて水の信心を貫いていこう!”と心に誓った。
 やがて彼は、苦境を脱し、食品会社を起こして、全国に販路を広げ、借金も返済し、見事に、信心の実証を示していくことになる。
 一九五八年(昭和三十三年)八月、第二代会長・戸田城聖亡きあと、総務として学会の一切を支えていた伸一が、鹿児島を訪問する。石切は、信心に励み、仕事の状況が大きく好転したことを、胸を張って報告した。
 その口調には、必死に生活苦と戦っている健気な同志を、どこか下に見ているかのような響きがあった。
 伸一は、話を聞き終えると、石切の目を見すえ、厳しい声で言った。
 「弘教に励み、事業がうまくいった――それは、ひとえに御本尊の功徳であり、信心の力です。しかし、もしも、慢心を起こし、信心が蝕まれてゆくならば、またすべてが行き詰まってしまう。したがって、自身の心に巣食う傲慢さを倒すことです。
 題目を唱え、折伏をすれば、当然、功徳を受け、経済苦も乗り越えられます。しかし、一生成仏という、絶対的幸福境涯を確立するには、弛まずに、信心を貫き通していかなくてはならない。信心の要諦は持続です。
 ところが、傲慢さが頭をもたげると、信心が破られてしまう。だから大聖人は、『只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこ(幢)をたを(倒)し忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだし(紲)なり』(同四六三ページ)と仰せになっているんです」

              

革心63/小説「新・人間革命」

2015年07月14日 19時58分08秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月14日(火)より転載】

【革心63】

 李先念副主席との会見が行われた十九日の午後六時半、中国側の関係者を招待して、山本伸一主催の答礼宴が開かれた。会場は、故宮博物院の北西に位置する北海公園の瓊華島にあるレストラン「仿膳(ほうぜん)飯荘」であった。

 北海公園は、現存する中国最古の宮廷庭園とされ、十世紀に建造されている。約七十ヘクタールといわれる公園の半分以上が人造の湖からなっており、蓮池もある。

 千年にわたって歴代王朝の御苑となってきたが、清朝滅亡後、一般に公開されるようになった。しかし、文化大革命の時には閉鎖され、この年の春から、再び開放されたという。

 一行が仿膳飯荘に到着した時には、夕日が空と湖面をオレンジ色に染め上げていた。伸一は、その美しさに目を見張った。

 彼には、〝日中の未来よ、かく輝け! 美しき友情で染め上げよ〟と、天が語りかけているように思えた。

 伸一と峯子は、レストランの入り口で、一人ひとりを出迎え、滞在中、お世話になった感謝を込めて、固い握手を交わした。

 答礼宴には、中日友好協会の廖承志会長や夫人の経普椿理事、張香山・趙樸初副会長、林麗ウン理事、孫平化秘書長、北京大学の季羨林副学長、通訳や車両の運転担当者など、多くの人たちが参加してくれた。

 また、周恩来総理の夫人であり、全国人民代表大会常務委員会副委員長の穎超が招待に応じ、歓迎宴に続いて、再び出席してくれたのだ。国家的な指導者との会見は、滞在中に一度という慣例を破っての出席であった。

 席に着く時、伸一は、中央の席を穎超に勧めた。すると、彼女は固辞した。

 「それは、いけません。今日は、あなたがホスト役ではありませんか。私は、あなたに心からの祝福を申し上げるために、出席させていただいたのですから」

 その謙虚さ、気遣いに、彼は恐縮した。

 謙虚さは、高潔な人格の証である。それは、人への敬い、広い心、揺るがざる信念の芯があってこそ、成り立つものであるからだ。

 

                         
      

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革心55/小説「新・人間革命」、

2015年07月03日 05時34分55秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月3日(金)より転載】

【革心55】


 歓迎宴が始まった。

 主催者である中日友好協会の廖承志会長があいさつに立った。

 彼は、中国と日本の平和友好条約締結の佳節に訪中団を迎えた喜びを伝えたあと、両国の友好関係は新しいスタートラインに立ったとして、感慨を込めて語った。

 「この時にあたり、私は、私たちの敬愛する周恩来総理が中日国交樹立の時に言われた『水を飲む時に、井戸を掘った人を忘れてはならない』という言葉の深い意味を、ひしひしと感じております。

 山本先生は、以前から、中日国交正常化のために尽力され、また、中日平和友好条約の早期締結のために、多くの努力を払われ、貴重な貢献をされてきました。私たちは、このことを、永遠に忘れることはありません」

 そして「両国人民は、この友好の大橋を渡って、中日友好事業を絶えず発展させていきたい」と延べ、乾杯に移った。

 答礼のあいさつに立った山本伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。

 「総理は、亡くなる一年前にお会いしてくださり、日中の平和友好条約の早期締結を訴えておられたことが、昨日のことのように鮮明に思い出されます。総理がご健在であれば、どれほど喜ばれたことか……。

 今後、条約に盛られた平和を守る精神をどのように構築していくかーーこれこそが、この条約の意義を真実に総仕上げしていく、最も重要な課題であります。

 私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、硬く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。                   

 その軸となる根本は、『信義』の二字であると申し上げたいのであります!」

 信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。
                          


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革心53/小説「新・人間革命」

2015年07月01日 08時46分29秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月30日(火)より転載】

【革心53】


 趙樸初副会長の話に、山本伸一は頷いた。
 「おっしゃる通りです。仏の真意は何かを正しく知らなければ、混乱を招きます」
 趙樸初は、ニッコリして言った。
 「その点、創価学会の皆さん方は、仏法を正しく理解しています。それは、民衆のなかに、仏法を展開し、人びとの生き方に、その教えを根付かせていることに表れています。
 私は、四月に聖教新聞社を訪れた折、一九六七年(昭和四十二年)に行われた東京文化祭の記録映画を拝見しました。仏法を生き方の基調とした、活気あふれる、躍動した民衆の姿に感動を覚えました。
 本来、仏陀の教えは、民衆と結びついたものです。したがって、民衆、衆生のなかに、その教えを弘め、それが、人びとの人格を磨き、生活、社会を繁栄させるものになっていかなくてはいけません。
 そのことを、皆さんは、実践されてきた。この事実は、皆さんが仏法を正しく理解されていることの証明です。敬意を表します」
 趙樸初は、仏教が単に学問研究の対象にすぎなくなってしまったり、儀式化し、慣習にすぎないものとなったりしていることを、深く憂慮していた。
 それだけに、民衆のエネルギーが満ちあふれた創価学会の運動に、真実の生きた仏法の存在を感じていたようだ。
 新しき時代・社会を建設し、革新していくには、その担い手である人間自身の精神の改革が不可欠である。人間の精神が活性化していってこそ、社会も活性化し、蘇生していくからだ。宗教は、その人間の精神のバックボーン(背骨)である。
 定陵から訪中団メンバーは、万里の長城に向かったが、伸一と峯子は宿舎の北京飯店に戻った。彼には、新聞や雑誌など、さまざまな原稿の依頼があり、わずかな時間でも、その執筆にあてたかったのである。
 人生の大闘争といっても、一瞬一瞬の時間を有効に使い、日々、なすべきことを着々と成し遂げていくことから始まる。             
                          

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革心52/小説「新・人間革命」

2015年06月30日 07時50分00秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月30日(火)より転載】

【革心52】


 山本伸一たち、訪中団一行が、南京から北京空港に到着したのは、午後七時四十分(現地時間)であった。秋冷えのするなか、空港では、中日友好協会の張香山・趙樸初副会長、廖承志会長の夫人である経普椿理事をはじめ、多数の“友人”が出迎えてくれた。

 既に四度目となる宿舎の北京飯店に着くと、外は雷雨となった。

 翌十七日も、激しい雨が降り続いていた。

 「天が大地を清めてくれているんだ。すばらしいじゃないか!雨に感謝だよ」

 宿舎を出発する時、伸一は、皆にこう言って、笑いの花を咲かせた。一行が向かったのは、前年九月、天安門広場の南側に完成した毛主席記念堂であった。車を降りた時には、雨はあがっていた。

 記念堂には、毛主席の遺体が納められている。一行は献花して追悼の祈りを捧げた。

 その後、北京の北西約五十キロにある明の十三陵の一つである定陵を見学した。

 定陵を巡りながら、伸一と趙樸初副会長の語らいが弾んだ。

 趙副会長は、中国仏教協会の責任者でもあり、これまでにも、何度か仏教談義を重ねてきた。この年の四月にも、中国仏教協会訪日友好代表団の団長として来日し、聖教新聞社で語り合っていた。

 定陵で二人は、「一大事因縁」「五味」「開示梧入」などについて意見を交換したあと、法華経を漢訳した鳩摩羅什をめぐって、翻訳論が話題となった。趙樸初が言った。

 「仏法の翻訳という作業においては、言葉を言葉として伝えるだけの翻訳では『理』であると考えています。自身の生き方、行動を通して、身をもって示し伝えてこそ、『事』の翻訳といえるのではないでしょうか。

 また、大切なことは、仏法の教えの心を知り、それを正しく伝えることです。翻訳者が言葉の表層しかとらえられなければ、仏法の法理を誤って伝えてしまうことにもなりかねません。崇高な教えも、翻訳のいかんで、薬にもなれば、毒にもなってしまいます」
                                  


■ 小説『新・人間革命』の引用文献

    語句の解説

◎一大事因縁など

 一大事因縁は、仏がこの世に出現した最も重要な因縁、出世の本意のこと。
 五味は、牛乳を精製する時に経る五つの味(乳、酪、生蘇、熟蘇、醍醐)のこと。これを法門に当てはめ、その優劣を説くのに用いる。
 開示悟人は、衆生に仏知見(仏の智慧の異名)を開かせ、示し、悟らせ、入らしめること。
             
                          

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革心51/小説「新・人間革命」

2015年06月29日 15時54分39秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月29日(月)より転載】

【革心51】

 廖仲が国民党の右派によって暗殺された時、子息の廖承志は十六歳であった。仲の妻・何香凝は、自宅の門に「精神不死」(肉体は殺せても、精神を殺すことはできない)との横幕を掲げて抗議し、毅然として新中国の建設のために戦い抜いた。その彼女の闘争を、若き穎超は支え続けてきた。

 廖承志は、父の遺志を受け継ぎ、社会改革の道を歩み、長征にも加わった。しかし、なんと味方である紅軍からもスパイの嫌疑をかけられ、手枷をつけて行軍させられたこともあった。また、文化大革命では、理不尽な攻撃にさらされ、四年間の軟禁生活を送った。

 中国の要人たちの誰もが、激動の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。

 革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。

 貧しさにあえぐ人民に幸せな生活を送らせたいというのが、廖仲、何香凝を活動に駆り立てた願いであったにちがいない。忘れてはならないのが、その革命の原点である。

 山本伸一たち訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。

 伸一は、空を仰ぎながら、皆に語った。

 「ご両親の追善をさせていただいたことを聞けば、廖承志先生も、きっと喜んでくださるでしょう。

 私が、日中友好に全力を注ぐのは、こうした平和と人民の幸福を願った方々の志を無にしたくないからです。そのためには、経済的な利害や、政治的な駆け引きに翻弄されることのない、友誼と信頼の堅固な基盤を築かなくてはならないからです。

 どうか、その私の心を、永遠に忘れないでほしい。特に青年部、頼むよ」

 一行は、孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花をし、冥福を祈り、題目を三唱した。

 そして、夕方には、空路、南京から最終訪問地の北京へ向かったのである。
                       

■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『頴超』潮出版社
  『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著 『蒋介石秘録』 サンケイ出版
                          

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革心50/小説「新・人間革命」

2015年06月27日 06時35分36秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月27日(土)より転載】

【革心50】


 山本伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。

 「中国の改革のために奔走された周総理と頴超先生が、一緒に過ごされた時間は、世間一般の夫婦と比べれば、決して長くはなかったはずだ。しかし、互いに、深い愛情と尊敬、信頼で結ばれていたと言われている。それは、お二人が、“夫婦”というだけでなく、“同志”の絆に結ばれていたからだろうね」                          

 “夫婦”も、相手を見つめ合うだけの関係であれば、その世界は狭く、互いの向上も、前進も乏しい。しかし、二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく“同志”の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。

 夫婦愛、そして同志愛に結ばれた夫婦の絆ほど、強く、美しいものはない。

 周恩来・頴超夫妻の間には、「八互原則」があったという。



   一、互愛(互いに愛し合う)

   二、互敬(互いに尊敬し合う)

   三、互勉(互いに励ましあう)

   四、互慰(互いに慰め合う)

   五、互譲(互いに譲り合う)

   六、互諒(互いに諒解し合う)

   七、互助(互いに助け合う)

   八、互学(互いに学び合う)



 夫妻は、常に、この精神に立ち返って、愛と信頼の絆を、より強く結び合いながら、新中国の建設をめざしてきたのであろう。

 峯子は、伸一を見て言った。

 「頴超先生にお会いしたら、お伺いしたいことが、たくさんありますね」

 続いて訪中団一行が訪れたのは、南京東部郊外の紫金山であった。ここは、孫文の墓所「中山陵」があることで有名だが、まず伸一たちが訪れたのは、中日友好協会の廖承志会長の両親であり、孫文や周恩来らと共に新しい中国の建設のために戦った、廖仲・何香凝夫妻の墓所「廖陵」であった。
                       

                            

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革心49/小説「新・人間革命」

2015年06月26日 07時07分47秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月26日(金)より転載】

【革心49】

 頴超の母・楊振徳は、一九四〇年(昭和十五年)十一月、病のため、六十五歳で世を去る。身なりも質素で、清貧に甘んじ、雑草のごとく強く、いかなる迫害にも屈することのない、気高き信念の生涯であった。

 彼女は、娘にこう語ってきた。

 「人は周夫人と言ってきっと大事にしてくれるわ」「でもあなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、穎超として尊敬される人になりなさい」(注1=2面)

 独立した人間であれ――それが、母の教えであった。

 頴超が悲しみの淵に突き落とされた時にも、泣いても何も変わらないのだから、歯を食いしばってでも頑張るようにと、励ました。

 母親は、人生で最初の教師であり、娘にとっては、生き方の範を示す先輩である。

 フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。

 「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」(注2=同)
  



 第二次国共合作のあとも、国民党には反共的な考えが根強く、共産党との対立が続いていた。周恩来、頴超にも、常に監視の目が光り、脅迫なども日常茶飯事であった。

 安徽省では、国民党軍が共産党軍を襲撃する事件も起こった。しかし、周恩来たちは、いきり立つ同志に、今は団結して抗日の戦いを進めることを懸命に説いた。

 四五年(同二十年)、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。

 周恩来と頴超は、梅園新村を事務所、宿舎として、国民党との和平交渉を行った。だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。

 そして、共産党が国民党を制圧し、四九年(同二十四年)十月、中華人民共和国が成立するのである。一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。



■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『頴超』潮出版社
  『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著 『蒋介石秘録』 サンケイ出版


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革心48/小説「新・人間革命」

2015年06月25日 06時53分29秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月25日(木)より転載】

【革心48】


 長征は肉体の限界を超えた行軍であった。

 食糧もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。

 敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も越えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。

 「奮闘すれば活路が生まれる」(注1)――それが周恩来の信条であった。

 そして、第一方面軍は、一九三五年(昭和十年)十月、陝西省保安で陝北根拠地の紅軍と合流。遂に、「長征」に勝利したのだ。しかし、総勢八万六千余人のうち、残ったのは、七、八千人とも、四千人ともいわれる。

 やがて頴超は、瑞金で別れた母の楊振徳が国民党に捕らえられ、「反省院」に入れられたことを知る。「反省院」といっても、思想犯が入れられる牢獄にほかならない。

 楊振徳が頴超の母であり、周恩来の岳母であることは知れ渡っている。拷問も受けているにちがいない。頴超は、胸が張り裂けそうになるのを堪えながら、闘争を続けた。

 自分も、家族も、いつ命を奪われるかわからない――それが、革命の道であった。

 三七年(同十二年)七月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。

 頴超が母の楊振徳と再会したのは、三八年(同十三年)の冬であった。母子は、瑞金で別れて以来、四年ぶりに、武漢で対面したのである。

 「反省院」での過酷な歳月は、彼女をいたく老けさせていた。しかし、気丈な魂が光を失うことはなかった。

 ある時、「反省院」で彼女は、娘の頴超と娘婿の周恩来に、革命をやめるように手紙を書けと迫られた。だが、毅然と胸を張り、こう言い放ったという。

 「私は革命をやっている娘を誇りに思っている。殺すなら殺しなさい」(注2)

 頴超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。



■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『頴超』潮出版社
  『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著 『蒋介石秘録』 サンケイ出版


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革心46/小説「新・人間革命」

2015年06月23日 07時06分19秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月23日(火)より転載】

【革心46】

 一九三一年(昭和六年)、中国共産党は、中央根拠地を江西省の瑞金に置き、中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立する。だが、国民党軍は、大軍をもって、この中央根拠地を包囲したのだ。周恩来も、穎超も、瑞金にあって苦闘を続けた。

 穎超は、髪を切り、共産党の革命軍である紅軍の帽子、軍服に身を固めた。食糧も満足にないなかで、皆を励ましながら、働き通した。しかも、冗談を絶やさず、苦労を笑いのめすかのように、いつも周囲に、明るい笑いの輪を広げた。

 なぜ、彼女は、あれほど明るいのか――皆は不思議でならなかった。

 穎超は、周恩来に、こう語っている。

 「私は根が楽天的なのよ。それに私たちが暗い顔をしていたら、みんなに伝染してしまうでしょう。今は苦しいけど、私たちの革命は先々光明に満ちているということを態度で示さなければいけないと思うの。みんなに勝利に対する確信を持ってもらいたいの」(注1)

 理想も、信念も、振る舞いに表れる。一つの微笑に、その人の思想、哲学の発光がある。

 国民党軍は、猛攻撃を開始し、拠点は次々と落とされていった。穎超は、砲弾のなか、物資の運搬や傷病兵らの看護に奔走し、皆を激励し続けた。彼女も、彼女に励まされた女性たちも、自分の着ている衣服を脱いで傷病兵を包み、配給されたわずかな食糧を戦死した兵士の子どもたちに与えた。

 穎超の体は、日ごとに痩せ細り、遂に大量に血を吐いて倒れ、高熱に浮かされた。立つこともできなかった。肺結核であった。当時は、「不治の病」とされていた。

 党は、中央根拠地の瑞金からの撤退を決めていた。母の楊振徳は、動けない傷病兵の看護のために残り、穎超は、死を覚悟で紅軍の撤退作戦に参加する。

 母は告げた。「最後まで生きなさい、革命はあなたを必要としている」「命あるかぎり戦いなさい」(注2)と。娘は、数歩歩いては倒れ、よろめきながら「長征」を開始する。



■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『頴超』潮出版社
  『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著 『蒋介石秘録』 サンケイ出版


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