【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月19日(水)より転載】
【勝利島25】
落下する石の直撃を受けた佐田太一は意識不明になり、この時も本土の病院へ緊急搬送された。頭蓋骨にたくさんのひびが入っていた。ところが、不思議なことに、致命傷にはいたらなかった。
“信心をしているのに、なぜ、またしても、こんな目に遭うんだ?”という疑問が、頭をよぎった。しかし、すぐに「転重軽受」(重きを転じて軽く受く)という言葉を思い起こした。信心によって過去世の重業を転じて、現世で軽くその報いを受けることをいう。
“頭の怪我を繰り返すのは、過去世からの悪業にちがいない。本来ならば命を落とすところ、信心をしてきたおかげで二度も救われた。命拾いをしたのは、俺には広宣流布をしていく使命があるからだ!”
御本尊への感謝と歓喜が胸にあふれた。
彼は、一カ月ほどで、さっさと退院し、ほどなく、以前にも増して元気になった。
佐田は、民宿の経営に力を注ぎ、宿泊客は、年々、増加の一途をたどった。
彼が、一つ、また一つと功徳の体験を積むにつれて、信心を始める人も増えていった。
そして、一九七二年(昭和四十七年)には、民宿を大改築し、客室数三十余室の“天売一”のホテルを誕生させたのである。
また、佐田に激励された人たちのなかから、島の広宣流布を担う人材も、続々と育っていった。天売支部の初代支部長を務め、後年、郷土資料館「天売ふる里館」を開く森崎光三も、その一人である。
天売島の同志の様子は、山本伸一にも報告されていた。
彼は、離島本部の幹部に語った。
「島では、実証を示す以外に、広宣流布の道を開くことはできません。学会員が現実にどうなったかがすべてです。だから、功徳の体験が大事になる。そのうえで、最も重要なのが、学会員が、どれだけ島のため、地域のために尽くし、貢献し、人間として信頼を勝ち取ることができるかです。それこそが、広宣流布を総仕上げする決定打です」