和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年08月06日 17時06分46秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月6日(木)より転載】

【勝利島15】

 九州北西部の島で起こった迫害事件に対して、学会員は法的手段も講じ、懸命に励まし合いながら、解決への努力を重ねた。
 島の同志のすばらしさは、精神面でも、生活面でも圧迫が続くなかで、一歩たりとも引かなかったことだ。
 皆、信心を始め、折伏・弘教に取り組むなかで、病や家庭不和を克服するなど、体験をつかんでいたのだ。
 “弾圧――本望ではないか! 御書に仰せの通りではないか! 私たちの信心も、いよいよ本物になったということだ。今こそ、折伏だ!”
 それが、皆の心意気であった。
 日蓮大聖人の「今は謗ぜし人人も唱へ給うらん」(御書一二四一ページ)との大確信を胸にいだいて、五キロ、六キロと離れた別の集落にも弘教に歩いた。
 やがて、学会員への村八分を問題視する声が高まり、村長、村会議長、集落の中心者らが集って話し合いがもたれた。そして、「一部の有力者の圧力によって、学会員が冷遇されてきたことは遺憾である」と、学会に謝罪したのだ。また、「共に集落の発展のために尽くしていきたい」との申し出があったのである。
 学会員への不当な圧迫が始まってから、丸三年が経過していた。島の同志の信心が、人間としての誠実さが、一切をはねのけ、見事に勝利したのである。


 長崎県には、軍艦島の通称で知られる端島など、炭鉱によって栄えた島も少なくない。そうした“炭鉱の島”の一つでも、弾圧事件が起こっている。
 それは、一九六二年(昭和三十七年)二月に、島に班が結成され、果敢に折伏が展開されていくなかで始まった事件であった。
 御書には、この娑婆世界は第六天の魔王の領地であるがゆえに、妙法広布の戦いを起こせば、仏の軍勢を討とうと、障魔が競ってくると仰せだ。広宣流布の前進は、必ず迫害、弾圧の嵐を呼び起こす。


               



                                 

小説「新・人間革命」

2015年08月06日 16時55分46秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月5日(水)より転載】

【勝利島14】

 夏季地方指導の最終日に開かれた座談会の帰り道、島の若者たちが鍬や鎌を持って道端に群がり、学会員に罵声を浴びせた。
 学会員が次々と誕生していくことを快く思わぬ、地域の有力者の差し金であった。
 学会の幹部を家に連れてきたことで、家主から、家を出るように言われた学会員もいた。
 有力者たちは、さらに学会攻撃の作戦を練った。そして、それまで集落費から出していた神社への寄付金を、各戸から、直接集めることにした。それに難色を示した学会員は、集落に非協力的であり、秩序を破壊したとして、除け者にされたのである。会員のなかには、集落での一切の付き合いを断たれ、村有地の借地権を奪われた人もいた。
 島の産業は、漁業と農業で、農業のなかでも葉タバコが大きなウエートを占めていた。学会員は、その組合からも除名された。
 近野春好は、農業を営んでいたが、葉タバコ生産の組合から締め出されたために、野菜などの栽培に切り替えた。しかし、島では、誰も買ってくれなかった。やむなく、他の島に売りに行き、生活を支えた。また、学会員には、どの店も商品を売ってくれなかった。
 電報で連絡を受けた支部の男子部幹部や、九州の学会幹部が村長を訪ね、村としての対応を問いただし、事態収拾への協力を要請した。さらに、駐在所にも出向き、島民である学会員の人権を守るように求めた。
 それでも、集落での迫害は、いっこうに収まらず、非道な仕打ちは、子どもにも及んだ。
 学会員の家の子は、周囲の子どもたちに、「ソーカ! ソーカ!」と言われて、こづかれ、石をぶつけられることもあった。
 だが、いじめられても、親には、何も言わなかった。辛い思いをして頑張っている両親を、これ以上、苦しめたくなかったからだ。
 同志は負けなかった。迫害のたびに、「これで宿命の転換ができるね」と言い合い、「いかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」(御書五〇四頁)との御金言を拝しては、決意を固め合った。


                                        

紫蘇/今日の俳句 ≪第.1856号≫

2015年08月06日 06時54分07秒 | 今日の俳句
  紫蘇しげるなかを女のはかりごと
       桂信子


  島へゆく船の畳に紫蘇の束
       吉田汀史


  もの書けるひと日は指を紫蘇にそめ
       橋本多佳子


  青紫蘇の闇のつづきを家に在り
       久保純夫


  紫蘇畑こんにゃく畑昼の雨
       児玉輝代



※ 赤紫蘇・青紫蘇・花紫蘇
 シソ科の一年草。葉は楕円形で先がとがり、縁に銀歯がある。赤紫蘇は茎や歯が紫色で香りや辛みが強い。葉は塩もみし梅干に加えて漬け込み、色と香りを漬ける。
 青紫蘇は刻んで薬味に。天麩羅も美味。花紫蘇は花が開いた花穂を摘んで、刺身のつまや天麩羅にする。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※


  人の前を灯せば

  わが前も明るくなる。

  「一人」を大切に!

  他者に尽くす生き方が

  自らの幸福境涯を開く!


        2015年8月6日





     ※☆*寸 鉄*☆※


広島原爆忌。青年よ奪命の魔性の爪をもぎとれ!核廃絶の声を世界に発信

        ◇

「白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえ」。清々しい唱題で日々勝利

        ◇

今年の訪日外国人、既に1千万人突破。民衆交流が平和の礎。心結ぶ道を

        ◇

夜間中学が既卒者を受け入れ、学び直しの場と。公明よ希望の政策さらに

        ◇

夏本番、体調管理に呉々も留意。睡眠・栄養・適度な運動を。賢く乗り切れ

【聖教新聞:2015年(平成27年)8月6日(木)付】





     ※☆*北斗七星*☆※


米国による原子爆弾の投下から70年。広島はきょう6日「原爆の日」を迎えた。原爆地は終日、鎮魂と平和への祈りに包まれる



午前8時15分、爆心地の上空約600メートルで爆発した原爆の熱線、爆風、放射線によって、「一瞬のうちに約7万人が命を落とし」(奥田博子『原爆の記憶』)、その年の暮れまでに約14万人が亡くなった。その大半は女性、子ども、老人などを含む非戦闘員だった。



さらに、被爆後、家族を捜したり、救護のために入市した人を残留放射線が襲う。放射性降下物を含む「黒い雨」も降った。生き残った多くの人が、がんや血液疾患など放射線による後障がいに、いまも苦しんでいる



心の傷も深い。「私は母を火の海に残して逃げた不幸者です」。そう語る被爆者がおられた。自分だけが生き残ったという罪悪感「サバイバーズ・ギルト」を抱えて生きる辛さは想像を絶する。また、近年、被爆者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)出現が指摘されている。理不尽な差別もあった。被爆者の傷は70年経っても癒えることはない



その被爆者が怒りや怨みの感情を克服して到達した、「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という思想ほど尊いものはない。被爆者の核廃絶への願いを、国際社会に共有させ、未来の世代に引き継いでいかねばと思う。     (中)

【公明新聞:2015年(平成27年)8月6日(木)付】





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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯

(8)御入滅と日興上人の継承

 弘安5年(1282年)9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くとして、9年住まわれた身延山を発たれました。その後、武蔵国池上(東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在されると、後事について種々定められました。
 9月25日には、病を押して、門下に対し「立正安国論」を講義されたと伝えられています。
 そして、弘安5年(1282年)10月13日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で、「法華経の行者」として、生き抜かれた61歳の尊い生涯を終えられたのです。

 大聖人御入滅後、日興上人はただ一人、大聖人の不惜身命の広宣流布の精神と行動を受け継がれました。
 また、広宣流布の継承者の自覚から、謗法厳誡の精神を貫き、国主諫暁を推進するとともに、大聖人が著されたすべての著述を「御書」として大切にされ、末法の聖典と拝して研鑽を奨励し、行学の二道に励む多くの優れた弟子を輩出しました。