和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年10月04日 11時09分23秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 10月3日(土)より転載】

【勝利島63】


 紅染まる 海原に

 船出の銅鑼は 轟きぬ

 波浪を越えて いざや征け

 世界広布の 先駆けと 

   

 海鳥の島 椰子の島

 燃える火の島 巌島

 いずこも使命の 天地なり

 常寂光の 都なり

    

 無情仕打ちの 烈風猛る

 悔し涙の 日々ありき

 われは祈らむ ひたすらに

 嵐に向かい 師子立てと

    

 開拓の鍬 銀の汗

 慈悲の種蒔き 幾歳か

 地涌の誇りを 胸に抱き

 微笑み包む 対話行

   

 同志は勝ちたり 勝ちにけり

 ああ満天の 星清か

 座談の園に 歓喜燃え

 人生凱歌の 笑顔皺

    

 海は母なり 恵みあり

 海は父なり 鍛えあり

 見よ後継の 若鷲は

 勇み羽ばたき 父子の舞

   

 君よ叡智の 光たれ

 信頼厚き 柱たれ

 一家和楽の 模範たれ

 幸の航路の 灯台たれ

    

 百花繚乱 この道に

 仰ぐ功徳樹 虹懸かる

 響け希望の 交響曲

 栄光燦たれ 勝利島



 敬愛する離島の同志の、師子奮迅の敢闘と大勝利を讃えつつ。(第二十八巻終了)


   

小説「新・人間革命」

2015年10月02日 14時28分01秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 10月2日(金)より転載】

【勝利島62】

 初の離島本部総会に集った人びとは、第二回の総会を目標に、意気軒昂に各島々へ帰っていった。

 第二回総会は、一九七九年(昭和五十四年)十月、前回を上回る百三十五島から八百人の代表が喜々として東京戸田記念講堂に集い、盛大に開催された。しかし、会場に山本伸一の姿はなかった。彼は、同年四月に会長を辞任し、名誉会長となっていたのである。

 創価の師弟を離間させようとした第一次宗門事件によって、伸一は会合に参加することもままならぬ状況にあった。彼は、個人的に離島のメンバーを励ましながら、総会の成功を見守るのであった。

 島の同志は、決然と戦いを開始した。

 “今こそ、弟子が立ち上がる時だ! 学会の真実と、山本先生の正義を叫び抜こう!”

 伸一のもとには、各島から、「先生、わが島は揺らぎません。いよいよ“まことの時”が来たと、決意も新たに頑張ってまいります」等の手紙が、多数寄せられた。

 離島本部の総会は、回を重ねるごとに、充実の度を増していった。地域に友好の輪を広げ、信心の実証を示し、戦い切った姿で集い合うことが、皆の目標となっていった。

 ハワイで総会が行われたこともあった。

 八八年(同六十三年)までに十回の総会を開き、翌年からは、全国離島青年部総会を六年連続で開催している。

 九九年(平成十一年)七月、地域社会に信頼と友情を広げる創価の民衆運動の柱として「地域本部」が設置される。離島本部は「離島部」となり、地域部、団地部、農村部(後の農漁光部)とともに、地域本部四本柱の一つとして輝きを放っていくのである。

 離島――創価の同志にとって、それは離れ島などではなく、久遠の使命を果たす天地であり、幸福島であり、勝利島となった。

 「宗教は、われわれが、この巨大で不確かな宇宙の中で孤独なのではないという確信を与える」(注)とは、アメリカの公民権運動の指導者キング博士の言葉である。


--------------------------------------------------------------------------------


■引用文献

(注) M・L・キング著『汝の敵を愛せよ』蓮見博昭訳、新教出版社


   

小説「新・人間革命」

2015年09月29日 16時43分15秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月29日(火)より転載】

【勝利島59】

 山本伸一は、離島の同志に寄せる自らの思いを語っていった。

 「皆さん方の愛する島へ、勇んで馳せ参じ、共に島の発展のために、福運の歴史を築きたい――それが、かねてからの私の願いであり、その気持ちは、今なお、いささかたりとも変わっていないことを知っていただきたいのであります」

 伸一の言葉に、皆、感動で胸が詰まった。

 「“すべての人々とともに、そしてすべての人々のために”――これが私の生涯の指針である」(注)とは、キューバ独立の英雄ホセ・マルティの言葉である。

 それは、伸一の真情でもあった。

 彼は、話を続けた。

 「本日の力強い第一回総会を起点として、気候的にも恵まれたこの十月ごろに、来年は第二回総会を、再来年には第三回総会を開催し、これを離島本部の楽しい伝統にしてはどうかと提案申し上げたい。賛成の方?」

 全員が賛同の挙手をした。

 「それでは、正式に決定させていただきます。当面は、この総会をめざして、前進の節を刻んでいきましょう!」

 喜びの拍手が高鳴った。

 「皆さん方は、第一期の島の広宣流布を推進し、見事な勝利を収められた。その実証が本日の晴れがましい姿です。

 そこで、本日の第一回総会をもって、いよいよ第二期の各島の広宣流布をめざし、勇躍、出発していっていただきたい!」

 ここに、離島の新章節の幕が開いたのだ。

 伸一は、未来のために、島の広布推進の要諦を語ろうと思った。

 「一つの島というのは、見方によれば、国と同じであるといえます。

 したがって皆さんは、一国を支えるような大きな心をもって、自分が、この島の柱となり、眼目となり、大船となるのだとの決意に立つことが大切です。そして、常に島の繁栄を願って、島民のために活躍していっていただきたいのであります」


--------------------------------------------------------------------------------


■引用文献

 注 「セラフィン・ベージョ氏宛て」(『ホセ・マルティ書簡集2 1888年―1891年』所収)マルティ研究所(スペイン語)





   

小説「新・人間革命」

2015年09月25日 11時33分44秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月25日(金)より転載】

【勝利島56】

 山本伸一は、「龍郷支部歌」をもう一度聴いた。それから、「では、今度は、ぼくの作った歌を聴いてよ」と言って、東京、関西などの方面歌のテープをかけた。

 その音楽の流れるなか、伸一は奄美の同志に贈るために、激励の色紙を書いた。

 「友よ起て 此の世の歴史と 龍郷城」

 「勝ちいくさ さらに上潮 たのむらん

   因果の理法 強く信じて」

 伸一は、最後に、「皆さんに、くれぐれもよろしく!」と言って参加者を送った。

   

 この九州研修道場滞在中、伸一は、離島本部の幹部から相談を受けた。

 「可能ならば、学会本部で離島の代表者会議を行いたいと思っております。

 実は、各島々を回らせていただいて感じましたのは、島と島とのつながりが、あまりないということでした。

 一部の方面では、各島の代表が集って懇談会などを行ってきたところもありますが、全体的に見ますと、孤立したなかで必死に信心に励み、健闘しているというのが実情です。

 したがって、全国の代表が一堂に会し、それぞれの島の同志が〝広布のモデル〟をめざして、奮闘している模様を語り合えれば、皆が元気になり、学会活動の勢いも出るのではないかと思います」

 一人立つことから、広宣流布の闘争は始まる。そして、一人立つ勇者の連帯がつくられる時、幸と希望の大潮流が広がる。

 伸一は、即座に言った。

 「大賛成です。各島々の同志は、孤軍奮闘している。それだけに、ほかの島の人たちも懸命に戦っている様子を知れば、勇気が湧くでしょう。しかし、どうせやるなら、極めて限られた代表が集う会議でなく、全国から大勢の人が参加できる総会にしてはどうだろうか。私が応援します。いつにするかは、よく検討し、一番良い季節を考えてください」

 早速、離島本部で協議し、総会の開催は、十月七日の土曜日と決まったのである。





   

小説「新・人間革命」

2015年09月23日 19時25分04秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月23日(水)より転載】

【勝利島54】

 山本伸一は、八丈島のメンバーに語った。

 「皆さんご自身が、本来、仏であり、皆さんは、自分の今いる場所を常寂光土としていくために出現したんです。どうか、力を合わせ、八丈島を広布模範の島にしてください。広布第二章の大潮流を八丈島から起こしてください。私は、じっと見守っています」

 また、彼は、八丈島の同志を代表して、菊田秀幸に歌を贈った。

   

 八丈に わが友君が ありつれば

   妙の薫風 幸とかおらむ

   

 伸一の激励は、菊田一家にとどまらず、島全体に大きく感動を広げていくことになる。

 この一九七八年(昭和五十三年)十一月、八丈本部が誕生するが、後年、菊田秀幸は本部長として活躍することになる。

 また、八丈島では、「聖教新聞」の購読推進に力を注ぎ、学会への理解を深め、二十一世紀へのスタートを切ろうと話し合った。そして、皆が友好の輪を着実に広げ、地域貢献に努めていくなか、島の購読世帯が三五パーセントを超える結果をもって、二〇〇一年(平成十三年)五月三日を飾ることになる。

   

 一九七八年(昭和五十三年)八月十三日、伸一は九州研修道場で行われた、佐賀、長崎、鹿児島の三県合同幹部会に出席した。

 その翌日、彼は、奄美へ帰る十数人のメンバーと会って懇談のひと時をもった。

 伸一は、皆の顔を見ると、笑みを浮かべた。

 「どうも、遠くからご苦労さまでした。一緒に、記念の写真を撮りましょう」

 懇談が始まった。参加者の一人が言った。

 「先生! 『龍郷支部歌』のテープを持参してきましたので、お聴きください」

 伸一の目が光った。

 「龍郷! 大変な迫害を勝ち越えてきた、あの龍郷ですね。聴かせていただきます」

 伸一は、最も苦闘してきた人たちのことを生命に焼きつけ、題目を送り続けてきたのだ。





   

小説「新・人間革命」

2015年09月22日 15時37分26秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月21日(月)より転載】

【勝利島52】

 一九七八年(昭和五十三年)一月、「広布第二章」の支部制が発足し、離島にあっても清新の息吹で新たな前進が開始された。

 山本伸一は、各島々の飛躍のために、ますます力を尽くそうと心に決め、島にあって広宣流布を支え、推進してくれた同志を、讃え、励ますことから始めた。

 彼は、それぞれの島に生き、戦う、勇者たちの英姿を思い浮かべ、祈りを込め、代表に激励の和歌や言葉を、次々と贈っていった。

 「奥尻の 友はいかにと 今日も又
   幸の風吹け 祈る日々かな」

 「大聖に 南無し護らむ 佐渡の地で
   広布の友の いくさ讃えむ」

 「いつの日か 渡り語らむ 隠岐の島
   わが友思はば 心はずみて」

 「ふたたびの 友と会いたし 徳の島
   幸の唱題 おくる嬉しさ」

 「はるかなる 宮古の島に 君立ちて
   広布の楽土を 祈る日日かな」

 東京・伊豆大島の同志にも詠んだ。

 「いついかん 椿の花の その下で 
   広布に舞いゆく 君らいかにと」

 沖縄・久米島の同志には、こう記した。
 「どんなに辛くとも 団結第一で楽しい人生を 題目と共に 生きぬいて下さい」

 この励ましに、同志は燃えた。

 吹雪の暗夜を歩み続けてきた人には、一言の激励が勇気の火となり、温もりとなる。苦闘し抜いた人ほど、人の真心を感じ取る。
  

 山本伸一は、どこへ行っても、離島から来たメンバーがいると聞けば、全精魂を注いで励ましていった。

 三月三十一日、彼は、東京・大田区に新たに完成した大森文化会館を視察した。会館の和室で地元のメンバーと懇談していると、区の幹部が、八丈島から来たという数人の会員を連れてきた。伸一は、立ち上がって、皆を部屋に招き入れながら語った。

 「八丈島! 八丈島からですか! 遠いところ、ようこそおいでくださいました」





   

小説「新・人間革命」

2015年09月12日 17時02分26秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月12日(土)より転載】

【勝利島46】

 小笠原へ旧島民が帰還してしばらくは、本土と父島を結ぶ船便は、月に一便であった。当然、生活物資が届くのも月に一度である。

 島に、住民が移って来るたびに、佐々本卓也や浅池隆夫は、学会員がいないかどうか聞いて回った。

 父島には、旧島民のほかに、新しい住民も増えていった。また、アメリカは、終戦の翌年には欧米系の旧住民の帰還を認めており、欧米系の人たちが暮らしていた。

 佐々本や浅池は、その人たちと融和を図りながら、島づくりに励んできた。

 彼らが父島に戻って二年がたった一九七〇年(昭和四十五年)ごろから、座談会も開かれるようになった。島での生活は、断水や停電も日常茶飯事であったが、そのなかで同志は、離島広布の先駆になろうと誓い合った。

 漁業調査船の船長である浅池は、海流やプランクトンの分布、魚群の種類の調査等のほか、父島と母島の物資の輸送や急病人への対応、海上遭難者の救出などにも奮闘した。

 地域への貢献を通して、信頼を勝ち取ることが、そのまま広宣流布の前進となった。

 「信心即生活」である。ゆえに学会員一人ひとりの生き方のなかに、仏法が表れる。

 彼は、船長を五年ほど務めたあと、小笠原支庁の職員となった。

 学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。

 島には、次第に観光客も増えていった。それにともない、ゴミが無造作に捨てられるなど、自然環境の破壊も進み始めた。

 島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。

 また、母島の広宣流布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。母島生まれの彼は、二歳の時、家族と共に強制疎開の船に乗る。移り住んだ八丈島で一家は入会。彼の父親は、母島に帰ることを夢見て生きてきた。喜郎は父と、「小笠原が返還されたら一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。







   

小説「新・人間革命」    

2015年09月10日 20時23分57秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月10日(木)より転載】

【勝利島44】

 離島本部の幹部は、四月には日本海に浮かぶ島のなかで最北に位置する北海道の礼文島や、利尻島にも足を運んだ。両島で映画「人間革命」の上映を行った。利尻島では百五十人を、礼文島では三百人を超える人びとが集って鑑賞した。
 その折、「聖教新聞」の創刊二十三周年記念事業の一環として、礼文町の礼文小学校に千冊余の図書贈呈が行われたのである。
 さらに五月、離島本部長らは、小笠原諸島の父島を訪問することになった。
 小笠原は、東京の南方千キロの太平洋上にあり、父島をはじめ、母島、硫黄島、南鳥島など、三十余の島々から成る。一九四四年(昭和十九年)、太平洋戦争の激化にともない、島々に住んでいた約七千人の住民が、本土などに強制疎開させられている。その島のなかで、硫黄島は米軍との激戦の舞台となった。守備隊の大多数の約二万二千人が戦死。米軍も七千人近い戦死者と約一万八千人の負傷者を出したといわれる。
 戦後、小笠原はアメリカの施政権下に置かれ、返還されたのは、強制疎開から二十四年後の六八年(同四十三年)六月のことであった。その後、かつての住民たちが帰還し、広宣流布の火がともされていった。そして、七四年(同四十九年)ごろには、弘教も活発に進められていたのである。
 小笠原の島々は、一年中、暖かく、梅雨もない。固有の進化を遂げた生物が多く、「東洋のガラパゴス」と呼ばれている。豊かで美しい自然が残されており、周辺の海には、クジラやイルカの姿も見られる。しかし、当時、小笠原に行くには、東京の竹芝桟橋から出る週一往復の船しかなかった。片道三十八時間、三日がかりの船旅となる。
 離島本部から上がってきた、小笠原指導の報告に対して山本伸一は言った。
 「私に代わって行ってきてください。“会長ならどうするか”と常に考え、大確信をもって激励を頼みます。師弟不二の心で行動してこそ、大いなる力が発揮できるからです」








   

小説「新・人間革命」

2015年09月09日 20時02分40秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月9日(水)より転載】

【勝利島43】

 離島本部の幹部らにとって、各島々の訪問は、すべてが驚きであり、感動であった。
 西表島では、訪問初日、島の東部の大原大ブロックで映写会などを行った。
 山本伸一の沖縄訪問の記録映画が上映された。石垣島で行われた「八重山祭」での「巻き踊り」のシーンとなった。これは、大原大ブロックのメンバーが演じたもので、ハッピ姿で鉢巻きを締めた伸一が、自分たちと手をつないで踊る様子が映し出されると、期せずして歓声と拍手が湧き起こった。
 映写終了後も、涙ぐみながら、あの日の感激と決意を語る人が後を絶たなかった。
 翌日は、島の西部にある西表大ブロックへ移動しなければならない。しかし、道路はつながっておらず、サバニと呼ばれる小舟を借りていくことになった。
 西表島長をしている島盛長英は言った。
 「私たちは、普段は東部の大原港から石垣島に出ます。そこで一泊し、翌日の船で、西部の船浦港へ渡ります。石垣島から船浦港の往復は、一日一便しかありません。今回は、時間を短縮するために舟にしました。少し揺れるかもしれません」
 この日は、海上風警報が出され、風が強く、波が高かった。皆、雨合羽を着て舟に乗り、その上から防水シートを被って、舟べりにしがみついた。
 それでも、激しい波にもまれ、衣服は飛沫で、びしょ濡れになった。しかし、映写機とフィルムだけは濡らすまいと、抱きかかえての一時間であった。船浦港からは、トラックをチャーターして会場に向かった。
 道はでこぼこで、車の揺れは激しく、体が飛び跳ねる。離島本部の幹部は思った。
 “西表の人たちは、こうしたなかで活動しているのか! 十分も歩けば、大ブロックを通り越してしまう東京都区内とは大違いだ。東京にいて、活動が大変だなんて嘆いていたら、西表の人に笑われてしまう”
 労苦は、仏道修行の最高の道場となる。大変な思いをした分だけ、功徳は大きい。









   

小説「新・人間革命」

2015年09月08日 04時54分54秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月7日(月)より転載】

【勝利島41】

 離島本部の第一回代表者会議では、奄美大島、喜界島、屋久島に「地域長」が設けられたことが発表され、その人事も紹介された。
 各島の地域長は、その島ならではの特色を生かしながら、それぞれの島の発展、広宣流布の責任を担う中心者である。
 山本伸一は、代表者会議を終えて、帰途に就くメンバーの見送りにも立った。
 バスに乗り込む一人ひとりの魂を揺さぶる思いで、声をかけ、励ましていった。
 「島のことは、皆さんにお願いするしかありません。皆さんが動いた分だけ、語り合った分だけ、広宣流布の前進があります」
 「皆さんのご健康を、ご活躍を、島の繁栄を、懸命に祈ります。朝な夕な、題目を送り続けます。私たちの心は、いつも一緒です。じっと、皆さんを見守っていきます」 
 「島の人びとは、すべて自分が守るのだという思いで、仲良く、常識豊かに、大きな心で進んでいってください。信頼の大樹となって、全島民を包んでいただきたいんです」
 広布の一切は、一人立つことから始まる。この日、離島の同志たちは、広布第二章の新しい扉を開いたのである。
 参加者を見送った伸一は、三津島誠司ら離島本部の幹部に語った。
 「各島々の広布の基盤をつくるまでは、離島本部の幹部は、徹底して離島を回って激励に力を注ごう。私も、そうします。あらゆる機会に離島の方々を励ましていきます」
 その言葉通り、山本伸一は、香港から帰国した翌々日の二月二日には沖縄を訪問。石垣島、宮古島へも足を運んだのである。
 どちらの島でも、一緒に記念のカメラに納まった。地域の友人も参加しての「八重山祭」「宮古伝統文化祭」に出席し、共に踊りもした。「先祖代々追善法要」も、会館の起工式も行った。西表島の中学校、伊良部島の小学校への図書贈呈も行い、皆と懇談を重ねた。
 島民と融合した数々の行事は、まさに「仏法即社会」の在り方を示すモデルケースとなった。一つの範を示せば流れは開かれる。

 

小説「新・人間革命」

2015年09月01日 19時58分10秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月1日(火)より転載】

【勝利島36】

 一九六五年(昭和四十年)一月十一日には、伊豆大島が大火に見舞われた。

 夜遅く、元町の繁華街から出た火は、強風に煽られて、たちまちのうちに広がった。

 大島支庁、町役場、図書館、郵便局、電話局をはじめ、商店、住宅など、五百八十余棟が全焼し、焼失面積約三万七千五百平方メートルという大火災となった。

 死傷者がいなかったことが、せめてもの幸いであった。被災した人のなかには三十世帯近い学会員もいた。

 山本伸一は、この時も直ちに幹部を派遣した。彼らは、伊豆大島に到着すると、その夜、座談会を開いた。会場は、類焼を免れた学会員の家である。

 島は停電のため、電灯も消え、電話も通じていなかった。ロウソクがともされ、細々とした明かりのなかでの会合となった。

 ロウソクの火が、心細そうな参加者の顔を照らし出した。天井には、皆の不安を映し出すように、黒い影が揺れていた。

 落胆し、意気消沈した同志の様子に、一瞬、幹部は言葉を失った。しかし、生命力を振り絞るようにして語り始めた。

 「山本先生は『命が助かってよかった』と言われ、皆さんにご伝言を言付かりました」

 彼は、手帳を取り出し、伝えていった。  「皆さんの苦しいお気持ちは、痛いほどわかります。懸命にお題目を送っております。

 大聖人は『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』(御書二三二ページ)と仰せです。皆さんもまた、大島の柱となり、眼目となり、大船となる大切な方々です。

 その皆さんが、決してめげることなく、強く、明るく、はつらつとしていれば、大島は活気を取り戻していきます。どうか、島の方々を支え、励まし、勇気づけ、復興の担い手となってください。皆さんは、妙法を持った師子ではありませんか!」

 それは、伸一の魂の叫びであった。必死の一念から発する言葉には、魂の共鳴がある。



小説「新・人間革命」

2015年08月28日 13時26分59秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月28日(金)より転載】

【勝利島33】

 広布の潮は、昭和三十年代に入った一九五五年ごろから、各島々に、ひたひたと押し寄せ、年ごとに水かさを増していった。
 奄美群島では、奄美大島、徳之島はもとより、喜界島、加計呂麻島、与路島、請島、沖永良部島、与論島などにも、次々に同志が誕生し、学会の組織が整備されていった。
 山本伸一が第三代会長に就任した翌年の六一年(昭和三十六年)には、奄美に支部が結成される。
 奄美大島の南には加計呂麻島があり、さらに、その南方に与路島や請島がある。
 草創期、与路島の同志は、加計呂麻島や請島へは、手漕ぎ舟で弘教に通った。また、奄美大島の古仁屋で開かれる会合にも、手漕ぎ舟に乗って出かけた。四、五人が同乗し、数時間がかりで海を渡っていくのだ。
 皆、雨合羽を着て乗り込むが、波が高ければ、水しぶきで服は水浸しになる。舟を漕ぐ腕は痛み、体は疲れ果てる。しかし、「ひと漕ぎするたびに宿命転換が近づく」と、励まし合い、荒波を越えていった。
 自分たちを運ぶために、自分たちで漕ぐことから、“お客なし舟”と言って笑い合った。
 加計呂麻島の同志も意気軒昂であった。一日に五キロ、十キロと島内を歩いて友人の家を訪ね、仏法対話に励んだ。
 奄美群島の有人島の五つに、猛毒をもったハブが生息し、加計呂麻島もその一つであった。ハブは夜行性で、夜は危険度を増す。草むらなどでは、いつ襲ってくるかわからない。
 夜、学会活動に出かける時には、松明や石油ランプで足元を照らしながら、片手に長い柄のついた鎌や棒を持って、道の草を払いながら進むのである。
 雨の降る日、座談会の帰りに林道を歩いていると、傘の上に、ドサッと何かが落ちてきた。ハブであった。また、雨宿りをした小屋のムシロの下に、ハブがいたこともあった。
 使命に目覚めた民衆には、あらゆる障害をはね返す力がある。友の幸せを願う民衆の不屈の行動で、日蓮仏法は広がっていったのだ。


     



小説「新・人間革命」

2015年08月26日 11時26分32秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月26日(水)より転載】

【勝利島31】

 各島々を回る石切広武を、家族は力を合わせ、必死になって支えた。
 島の人びとの暮らしも、学会活動も、本土の都市にいたのでは想像もできない大変さがあった。石切が地区部長になったころ、まだ港が整備されていない島が多く、沖で櫓漕ぎの艀に乗り移って、島に向かわなければならなかった。頭から足まで、びしょ濡れになる。
 船から荷を降ろして運ぶには、島に艀を操れる人がいなくてはならない。たとえば、十島村の臥蛇島では、島民が数世帯に減少し、その作業をできる人がいなくなってしまったことから、一九七〇年(昭和四十五年)に全住民が島を離れ、無人島となっている。
 吐噶喇列島の北の玄関口にあたる口之島で二十四時間送電が実現したのは、七八年(同五十三年)七月からである。それ以前は、島の自家発電所による給電であり、時間制限があった。また、供給が不安定で、座談会の最中に停電することもあった。
 ある時、石切は皆に学会の映画を見せたいと思い、映写機を担いで学会員宅を訪問。スイッチを入れると、映写機の電球が切れた。予備の電球も切れてしまい、上映できなかった。自家発電のため、電圧が本土と違っていたのだ。次回からは変圧器持参となった。
 島内を回るには、二時間、三時間と、ひたすら歩くしかない。真っ暗な夜道を歩いていて、側溝に落ちたこともある。
 石切のバッグには、幾つもの即席麺が入っていた。自分の食事のことで、島の同志に迷惑をかけるわけにはいかなかったからだ。
 海が荒れ、船が欠航すれば、何日も島で待たなければならない。しかし、その間、一人ひとりと、じっくりと対話ができた。
 島では、一人が本気になれば、広宣流布は大きく開かれるが、一人の退転や離反で、組織が壊滅状態に陥ってしまうこともある。
 “不撓不屈の決意に立つ、広布の闘士を育てよう。それには、俺が不撓不屈の人になることだ。師子となってこそ、師子を育てることができる”――彼は自分に言い聞かせた。



                        

小説「新・人間革命」

2015年08月15日 03時46分21秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月14日(金)より転載】

【勝利島22】


 佐田太一は、妻と共に信心を始めた。佐田も、妻も、入会すると、無我夢中で題目を唱えた。苦境を脱しようと必死であった。
 学会の指導通りに、折伏・弘教にも駆け回った。すると、妻が苦しんできた心臓弁膜症による胸部の痛みや呼吸困難の症状が、次第に緩和されていったのである。
 二人は、”これが、功徳ということか!”と思った。御本尊に心から感謝した。
 入会五カ月後、佐田は、信心への強い確信を胸に、生まれ故郷の天売島に戻る決意をした。彼には、相変わらず多額の借金があり、取り巻く環境は、何も変わっていなかった。ただし、心は、大きく変わっていた。
 借金苦に堪えかねて、島を出た時とは異なり、胸には、”俺が、天売島の広宣流布をするのだ! 島のみんなを幸せにするのだ!”という、誓いの炎が燃え盛っていた。
 天売島で、佐田は再び漁師を始めた。そして、島中を弘教に歩いた。島民は、皆、佐田のことをよく知っている。代々の網元だったが、借金苦で”行方をくらました男”としてである。折伏をすると、あざ笑われ、塩を撒かれもした。
 人びとは、陰で囁きあった。
 「佐田のオヤジは、遂に頭がおかしくなった。今度は、わけのわからぬ変な宗教に取り憑かれてしまった。惨めなものだ……」
 狭い島のなかである。自分への批判は、すぐに耳に入ってくる。
 悔しかった。地団駄を踏む思いであった。
 島には、相談する幹部も、同志もいない。歯を食いしばって耐えた。
 彼は、懸命に唱題しながら、考えた。
 ”まだ、借金も返せぬ貧乏な状態では、何を言おうが、誰も話を聞かなくて当然だ。実証だ。実証を示す以外にない。御本尊様! どうか、島の広宣流布をしていくために、経済革命させてください”
 実証なき言説は空しい。日蓮大聖人は、「道理証文よりも現証にはすぎず」(御書一四六八ページ)と、断固として仰せになっている。



                                            

小説「新・人間革命」

2015年08月15日 03時35分36秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月13日(木)より転載】

【勝利島21】

 佐田太一は、疑問をいだき続けてきた。
 “自分は、青年時代から、人一倍、強い信仰心をもち、いろいろな信心をしてきた。自分ほど真面目に信仰に励んできた者はいないとさえ自負している。ところが、災厄が次々と襲い、食うや食わずの生活を送らねばならない。いったい、どうしてなのか!”
 どん底の生活のなかで、彼は“神も仏もあるものか!”と思うようになっていた。
 友人は、佐田の苦しい胸のうちを察するかのように、励ましの言葉をかけながら、宗教の教えに、高低浅深があることを語った。
 「人生は、何を信じるかが大事なんです。たとえば、去年の暦を信じて生活したら、どうなるか――すべてが狂い、社会生活は営めなくなる。また、天売島を歩くのに、隣の焼尻島の地図を見て歩いたら、どうなるか。正しい目的地には行くことができない。
 宗教というのは、幸せになる根本の道を描いた地図みたいなものです。正しい宗教を信じて、進んでいけば、必ず幸せになる。それが、日蓮大聖人の仏法であり、その教え通りに実践しているのが創価学会なんです。
 佐田さんは、これまで、別の島の地図を見ながら、歩いて来たようなものだ。そして、迷路に入り込んでしまった。だから、せっかく努力しても、努力しても、おかしな結果になってしまい、抜け出せずにいる。それが、宿命ということなのかもしれません。
 しかし、創価学会の信心は、間違いない。その宿命を転換することができる信心なんです。事実、私もそれを実感しています。
 佐田さん。人生は、まだまだ、これからですよ。頑張って、必ず勝ちましょうよ」
 佐田は、この時、四十六歳であった。
 友人と話しているうちに、希望が湧いてきた。よくわからないこともあったが、彼を信じて、学会の信心にかけてみようと思った。
 仏法対話とは、希望を引き出し、勇気を引き出す、生命の触発作業である。
 一九五五年(昭和三十年)五月、彼は、晴れて創価学会に入会した。