和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

人材城(三十六)小説「新 ・人間革命」

2012年05月22日 12時00分17秒 | 今日の俳句
    小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2012年 (平成24年)5月22日(火)より転載】
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人材城36(5/22)
 牧口長七が北海道に渡ったのは、十三歳ごろであったようだ。“音信不通になったままの実父を捜したい”という思いもあったのかもしれない。

 彼は、小樽警察署で給仕をしながら、寸暇を見つけては読書と勉強に励んだ。その熱心な勉強ぶりから、つけられたニックネームが“勉強給仕”であった。

 やがて、牧口は、北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学)に、第一種生として入学する。公教育に尽力する有能な人材として、郡区長から推薦されての入学である。

 師範学校は、全寮制で、授業料も、生活費も官費で賄われ、卒業後は、一定期間、教職に就くことが義務づけられていた。牧口にとっては、それが学校で学ぶための、唯一の道であったのであろう。

 「学問は米を搗きながらも出来るものなり」(注)とは、福沢諭吉の箴言である。
 福沢や牧口の青年期と比べ、今や時代は、大きく変わった。学ぼうという強い志さえあれば、学びの道は随所にある。

 牧口は、一八九三年(明治二十六年)に北海道尋常師範学校を卒業すると、同校の附属小学校の訓導(教員)として、教員生活のスタートを切った。さらに、母校の師範学校でも、地理科の担当として教壇に立つ。 彼は、附属小学校では単級教室を担当した。単級とは、全学年の児童で編成された一つの学級である。

 牧口は、雪の降る日などは、登校してくる児童を出迎えた。下校時には、小さな子どもを背負い、大きな子どもの手を引いて、送っていった。また、学校では、湯を沸かして、アカギレだらけの子どもの手を洗ってやった。

 このこまやかな気遣いの行動は、児童の幸せを願う牧口の思いの、現れといえよう。気遣いは、真心の結晶である。

 教員としての新生活が始まった、九三年の一月、牧口は「長七」の名を「常三郎」に改めた。二十一歳のことである。

※【注】 小説『新・人間革命』の引用文献
 「学問のすヽめ」(『福澤諭吉全集 第3巻』所収)岩波書店=現代表記に改めた。


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1 コメント

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ねぇ (nene77nene7@yahoo.co.jp)
2012-05-23 03:09:26
こんにちは!ハロッo( ̄▽ ̄o)(o ̄▽ ̄)oハロー ブログ見て初めてコメントしまっす!興味あるなって思って読んでました私のブログであなたのブログ紹介したいなって思ってるんですけどいいですか?あ願わくば相互リンクとかもいいですか?tag48]、一応アド載せておくのでもしオッケーなら連絡もらえないですか?☆^^☆^^☆^^☆^^☆^^☆^^☆^^よろしく願いします~☆^^☆^^☆^^☆^^☆^^☆^^☆^^
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