近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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安岡章太郎「ガラスの靴」研究発表(2週目)

2013-10-17 13:58:00 | Weblog
こんにちは。
10月7日(月)に行われた、安岡章太郎「ガラスの靴」の研究発表(2週目)についてご報告させていただきます。
発表者、司会は1週目と同じです。

〈安岡章太郎「ガラスの靴」論 ―語る僕の意識―〉
2週目の今回は、1週目で指摘された部分(戦争の比喩・クレイゴー中佐・題)を中心に本文検討がなされていました。以下、発表内容を簡潔にまとめます。
「僕」と悦子が夏休みを過ごした接収家屋は、期限付きの虚構の場であるが、「僕」は悦子を「ずっと昔からこの家でそだてられた娘」のように錯覚するなど、米国に対して兵士のような敵意を持っているにも関わらず、そこを自分たちのものだと思い込んでしまう。しかし、「僕」はクレイゴー中佐と実際に会い、接収家屋は米国人のものであり、自分たちのものではないこと、さらに、自分と相手の力の差を理解する。語る現在の「僕」は無自覚だった当時の「僕」への皮肉として、戦争の比喩を用いている。
「ガラスの靴」という題は、虚構である御伽噺を示す言葉であり、「僕」は悦子の御伽噺をばかにしていたが、実際は影響を受けており、最終部分で悦子からの電話を待ち続けるという形で、再び虚構の世界に引きずり込まれてしまう。

議論としては、発表資料の中で何度か挙げられた「虚構」という言葉について、活発に話し合われました。たとえば、「悦子との間での虚構」と「別れた後での虚構」は、悦子にとらわれているという点では同じだが、その性質は違うのではないかという意見、そもそも「ガラスの靴」という題は「虚構」ではなく、期限のほうをさしているのではないかという意見です。

岡崎先生からは、悦子を子供っぽいとは言い切れないのではないかということ、タイトルの秀逸さをもう一度考えてみること(「ガラスの靴」は終わりと再びの始まりを意味していたり、壊れやすさの象徴でもある)、クレイゴー中佐なしでは「僕」と悦子の生活が維持できないこと(ようするに、アメリカなしでやっていきたいのに、アメリカなしでは生きられないということ)の中にもいわゆる「虚構」が存在すること、などをご指摘いただきました。
多角的に読むことによって、色々な考え方が出来るのが、文学研究の面白さであるとのお言葉もいただきました。

10月14日(月)は、根本先輩の卒業論文中間発表会です。
更新が遅くなって申し訳ありませんでした、それでは失礼します。

1年 熊谷