近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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川端康成「抒情歌―輪廻の物語―」第2週目

2011-12-05 23:38:11 | Weblog
こんにちは、今井です。


本日の例会は「抒情歌」の発表の第2週目でした。前回は副題がまだ決まっていませんでしたが、今回は「―輪廻の物語―」という副題が付けられました。
発表者は前回と同様、藤野先輩と神戸さん、司会は今井が務めさせていただきました。

先行研究に関しましては、前回いただいたご指摘を反映し、最近の研究を引用なさっていました。そのうえで研究の傾向を分析し、今回の発表の方向性と目的を示してから、作品分析が行われました。

「母と龍枝の愛について」という項目では、龍枝の力について龍枝自身は喜んでおらず、母がその力を誇りとして喜んでいたこと、また龍枝は成人し母を慕う気持ちが強くなくなっているのに対し母は変わらぬ思いを持っており、その強すぎる執着を見せる母へ嫌悪感を抱いていたこと、同時に「あなた」に対して自分が母と同じように愛のあかしを求めてしまったことに自己嫌悪をしているのではないかと分析されていました。

「龍枝と「あなた」の愛について」という項目では、まず龍枝はいつも「あなた」への送信を行っていて、「あなた」はいつも受信者であったとされました。ただし、これは龍枝が「あなた」の魂に魂を寄り添わせることで「あなた」の魂を強制受信に近い状態においているとの言及がなされました。また「あなた」との通信が取れなくなってしまったのは、あくまで龍枝から扉を閉ざしたからであるとされていると指摘されました。
龍枝が自らを象徴抒情詩としていることについては、「多くの同じ気持ちをもつ人々の代弁を図っているとも読み取れる」ということでした。

長くなってしまいましたが、結論はまとめると以下のようなものでした。
「この作品において龍枝が語る〈愛〉とは魂での繋がり合いのことを示す。」母と幼少期の龍枝、龍枝と「あなた」は、どちらの関係も執着的な愛のあかしを求めすぎた結果、求められた側が離れていってしまうことにおいて共通しており、「ここには愛の輪廻転生の失敗がみてとれる。」構造の観点から「この物語は「輪廻より解脱」のできぬ「哀れな魂」を死者へ語りかける独白という形で、「哀れな魂」を鎮めようとしている。龍枝の独白を通して、純粋なままではいられない、人の愛の一面を象徴抒情詩として歌い上げた作品」である。

ご質問は「龍枝の自己嫌悪はどこから読み取ったのか」「いつも龍枝が送信者で「あなた」が受信者だとは言えないのではないか、手紙のことなどを踏まえると、相互に送受信がなされてはいないか」「「この香は死んでいるわ」と「強い現世の香」の「香」は意味が異なるのではないか」「匂いがよく出てくるが、匂いについてどのような考えを持っているか」「代弁のために抒情詩を書いたというのはひっかかる」「母と「私」、「私」と「あなた」を同じ位相で考えているか」「「愛の輪廻転生の失敗」とは具体的に何か、成功とはどんな状態のことを指すか」「今回の発表では神話について触れていないが、それはなぜか」「なぜ「私」の語りは信用できないのか」「作中では「抒情詩」、タイトルでは「抒情歌」となっているが、違いは何か」「呪殺説についてどう考えているか」などでした。

ご指摘としましては、「執着=愛のあかしではなく、愛のあかしを求めることにおいて執着がみられる」「母と「私」、「私」と「あなた」を同じ位相で見るべきではない」「この作品に描かれている愛以上に純粋な愛はないといえるくらいに、この愛は純粋ではないか」「神話と龍枝のエピソードに矛盾がみられ、そこに龍枝の揺れがみられる。それは「私」の語りが信用できないという根拠にもなるため、神話との関わりも分析するべきだった」「「私」の語りを信用できない根拠を挙げながら疑っていことが大切である」などがなされました。


今回の発表は、前回のご指摘を生かし「私」の語りを鵜呑みにせずに疑って分析を進めていくことに留意なさっていたようですが、ご指摘を受け発表者の方もおっしゃっていたように、疑いが足りなかったようでした。私自身、「私」の語りが疑わしいことの根拠である龍枝の語りかけの矛盾点の丁寧な考察にまだ至っておらず、もっと細部まで分析し、きちんと整理するなどしておけばよかったと反省しております。根拠を丁寧に本文に求め、論を固めていけるように頑張ります!


発表者の方々、お疲れさまでした!
次週はいしがみ先輩による「詩を書く少年」の発表の第1週目です。