近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

〈露地〉世界の誇り

2007-06-20 22:37:21 | Weblog
 今週の発表は 坂口安吾「古都」 でした。発表者の方お疲れ様でした。

 一週目の今回は、露地生活者に焦点を当てて進められました。
 先行論では、この作品での小説家の〈僕〉について安吾と重ね合わせて捉えられ、安吾の孤独が描かれているという指摘のものもありました。実際に作品世界は、この作品の初出である昭和16年の5年前の著者の実体験を元に描かれています。が、小説家〈僕〉の孤独や苦悩は前景化せず、何も〈考へ〉ないただ命をつなぐだけの生活を過ごしていた〈僕〉の〈二階〉での生活風景は語られず、むしろ碁会所での物語りが選ばれて語られていることから、作品の主題は〈僕〉の孤独ではなく、この碁会所の物語にあるという指摘から論が進められました。

 フルネームで書かれる知人と渾名で通じ合う碁会所が対比され、小説家の〈僕〉は〈坂口〉から〈先生〉へと〈僕〉が生きてきた世界と別次元の共同体である〈露地〉の世界の一部となっていきます。

 〈露地〉の世界とは俗悪の空間で〈京都のゴミ溜り〉であり、〈参道〉の賑わいと隔たった異界である。そこに住むのは積極的に〈露地〉世界を抜けだそうとはしない〈落武者〉達であり、〈百鬼夜行〉より碁がうまい〈僕〉は、それだけの理由で〈統領〉になる。そこに住むのは〈辛抱〉も〈思ひやり〉もなく〈我儘〉で〈唯我独尊〉の卑小な性格の人々である。この卑小な人々の共同体は、人間が小さく、碁に関しても、楽しさを目的とした人々が集まる子供達の遊びの世界であるというように〈露地〉の世界を異界としてまとめていました。
 この碁会所を中心とした世界は〈僕〉にとって、生の終わりを感じさせる空間であり、自分の光さえも失わせる世界であったことから、異界という言葉はなるほどな。と思いました。そして外から見ると生の終わりを感じさせるこの異界の中の生、露地生活者の生活をどう捉えるのかで読みがわかれるのかなと思いました。

 発表者は、関さんや主婦と親爺からそれぞれの子供じみた〈誇り〉や親としての〈誇り〉を抜き出し、特に親爺の〈誇り〉は、長男としての〈誇り〉・親としての〈誇り〉を〈金〉への〈慾〉だと転化させていく姿勢であり、〈露地〉世界を生きていることへの〈誇り〉と捉え、卑小であること自体を親爺は誇り、卑小な者にも卑小なりの〈意地〉があり、一寸の虫にも五分の魂という内容が描かれているという指摘をされました。
 しかし、各人の〈誇り〉を卑小な者にも卑小なりの〈意地〉がある、というように一まとめの〈誇り〉にしていいのか。そもそも、彼らの〈誇り〉とは誰に対するものなのか。異界の住人を異常として救いようのない人々と捉えているのか、それともまっとうな生の姿勢として捉え描かれているのか、この評価をどうするのかが特に気になりました。

 またこの作品を違った角度から見るために、伏見や京都の地理的な象徴性。京都の町並みと碁の関係。東京の位置づけ。というような地理的問題
 さらに、白痴の捉え方。一年後に「日本文化私観」を発表した著者のこの作品の位置づけ。この作品から読める題名「古都」の意味づけ。などがあがったと思います。

 二週目は時間もなく大変ですが、発表者のお二人頑張って下さい!菱川でした。