近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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読書会 横光利一「静かなる羅列」

2010-01-12 00:12:44 | Weblog
 こんばんは。本日は横光利一の「静かなる羅列」をどう読むのか、普段の例会での形式である、発表レジェメを作成しての口頭発表ではなく、それぞれ学部生がレポートを作成しての討論をおこないました。
以下に掲げるものがその時に使用したレポートとなります。

平成二十二年一月十一日(月)近代日本文学研究会例会
横光利一「静かなる羅列」論

学部二年 

 本作は題名の示すとおり、S川とQ川をめぐる歴史が〈静かな羅列〉とされ、二つの川をめぐる人間の争いを、ながい時間の経過として捉える、という巨視を有するものである。二つの川の絶えまない争いと、そのなかの人々の争いを含む営みのなかに流れる一定した時間経過が、文体によっても意図されたものとして〈羅列〉によって表現されている点に注目して見ていくことにする。
 本作は、短い章の構成を持つために、視覚的に読みすすめられる印象は早く感じられる。それは、作品内の時間の流れにも速さを与える効果を持つ。この速さは、〈水勢〉〈波濤〉といった語句の与える印象と同一のものである。この読む速度をさえぎるものは、本作の全体におよぶ単語・漢語の使用である。これも、また〈羅列〉という題名を体現した文体のあらわれと見ることができる。この章の構成による速さと単語・漢語の多用による速度への阻害は、読むという行為自体への、読者の強い参加意識を要請するものと、本作の特徴として位置づけることができる。
 また、〈成層岩〉や〈堆積層〉、〈緩斜層〉といった層の形成・浸透から崩壊までの経緯を書くというのは、作者の左翼史観への言及と取ることが可能なのではないかと思われる。層という上下の重なりとその生成は、階級という社会主義の史観を彷彿とさせる。この川の層の形成・浸透と崩壊、それと川辺に生きる〈民衆〉の〈反抗〉は一体のものとして作品内で進行する。〈民衆〉は、王朝時代、封建時代から〈工場〉が〈建ち並〉ぶ時代へと移り、その逢着点に、〈反抗〉が用意されている。これはマルクスの唱えた階級闘争史観に沿ったものであることが明らかであるが、作者は、川という自然の歴史と同一に描くことで、人間のこうした営みを、卑小化させるのである。そこに、巨視によって歴史を捉えようとする作者の意図を読み取ることができる。また、卑小化された人間の〈反抗〉という物語は、それ自体が当時の社会主義への作者の応答であったとも見ることが可能なのだ。そして、川と人間の盛衰を、「静かなる羅列」と題したことの意味がここで明らかになる。すなわち〈静かな〉という、瞬間的な川や〈民衆〉の運動である〈水流〉や〈殺到〉を長くゆるやかな歴史と見る作者の巨視がそこにあるのだ。本文の〈傷ける肉体と、歪める金具と、掻き乱された血痕と、石と木と油と川と〉という終焉部は、こうした運動の歴史のなかにあらわれるものの〈羅列〉であるとともに、「と」による終え方により、読者に物語の結末ともいうべき運動の終焉を問いかけるという作者の挑戦でもあると言えるのである。



学部四年

 この作品では、S川とQ川の〈争奪〉と、それぞれの流域に住む人々の争いとが重ねて描かれている。それとあわせて更に、北斗・ペルセウス・アンドロメダといった星々の衰勢も諸所に挿入されている。先行論には、〈マルクシズムの台頭が破滅と滅亡とを人生に齎す〉と片岡良一が述べたのを皮切りに、〈冷やかな眼〉で〈見たものを腕力的というよりもむしろ暴力的に構成している文体〉を指摘し、〈傲然と身構えた気取り〉を読み取った梶木剛や、〈人間の社会の営みも、自然界の活動の一環〉として捕らえていると論じたうえで横光の持つ客観性を評価した玉村周などの論がある。私はSとQとの歴史が〈静かな羅列〉として扱われていることに注目し、それが作品の構造によって表されていると考えた。
 Q川とS川の流れる地は、〈山々〉に囲われている。この限定された範囲が、QとSの争闘の場である。権力を持つのは川にしろ人にしろSかQかのどちらかであり、星々のように老いたものと新しいものとの交替が行われるわけではない。権力はSとQの間を往復するものである。
 これらの抗争の歴史は、「一」から「十八」までの番号に区切られている。この番号によって分けられた文章のまとまりが〈羅列〉されて「静かなる羅列」は作られている。「一」から「十七」までは、環境と人間との有機的なつながりが、文章化されている。川は〈争奪〉しあうものとして擬人化され、人々は自我を持つ個ではなく、〈市民〉など流れを作り出す集団として表現される。川の流れと人間の流れは相対的に描かれ、あたかも川と人間とが分かちがたい相互作用を以って、SとQの歴史を作り上げているかのように見える。川が栄えれば人が栄え、人が栄えれば川が栄える。逆もまた然りである。ところが、衰勢を決定するものが個人の財力になった時、この相互関係は崩壊する。川の流れと戦局とが無関係なものとなり、戦いに関わるのは人間だけとなった。それが、「十八」の部分である。前章までとこの章とは明らかに形式が異なっている。ここでは人間の戦いが短い文章や単語の羅列によって表されている。このように描くことによって、闘争の各場面を断続的に映し出したモザイクを形成している。そして、語り手の視点は〈市街〉を鳥瞰したかと思えば、〈弾丸〉という小さなものを見出すなどめまぐるしい変化をする。「十七」までの語り手の視点が、あくまでもSとQを俯瞰的に見るに留まっていたことを考えると、「十八」におけるピントの合わせ方の異質さが際立ってくる。「十八」で表されるのは人間の行動に留まっており、〈没落〉するのも人間だけである。語り手の眼は都市と住民にのみ向けられ、地理的条件からは目が背けられている。彼らとかつて相互関係を築いていたS川とQ川は、文明が消えた後も変わらず流れている。それは〈河口〉の存在で証明されている。だが、川は流れデルタは存在し続けたとしても、その先のことは描かれない。人類が〈没落〉しているため、その先の物語を形成することは出来ないのだ。人類があったことは、物語の中で過去にされている。変わらない過去と自然の地理は、〈静かな〉ものである。それは動くことがない。それらを順々に〈羅列〉することが即ち、歴史を描いていくことなのではないだろうか。



学部三年

 文学の中で川・河は、様々なものをイメージさせる。
〈エジプトはナイルの賜物〉という言葉は、文明の誕生や、生活の恵みを意味する。また、〈三途の川〉では、人が死んで7日目に渡るという冥土への途中へある川である。美空ひばりの〈川の流れのように〉では人生に例えられている。他にも、性、死生観、母性、誕生などがイメージされやすい。
「静かなる羅列」では、人間の歴史を生み出すものとして川が描かれていると考える。文明(歴史)の誕生する場所としての「川」と、川の流れは止めることができない、即ち自分の力でどうすることもできないものとして、「川」が用いられたのではないか。
 また、人間の歴史の中で川が変化してきたのではなく、川の流れの中で人びとの営みが実践されている。〈S川の穏やかな渓谷には年々村落が増加した〉ことや、浸食によってできたデルタの上で人びとは生活し、川をめぐって戦闘が起きている。川が歴史や思想を生み出し、飲み込み、吐き出しながら人間を作り出しているのではないか。
 Q川とS川の性質は異なる。Q川の浸食力は激しく、狭隘な渓谷を流れている。S川の緩慢、豊饒な流れの中の渓谷には、村落が増加している。異なる性質の川を描き、時にそれらが混ざり合い、しかしそれでいて混ざり合わない。伊藤整氏の『横光利一読本』(昭30・5)の「横光利一文学入門」で言われている横光が感じていた〈生命存在の不安〉が、そういった止まることのない川の流れで描かれていると考えた。