このタイトルは、今読んでいる柳美里さんの「言葉のレッスン」というエッセイの中の一話から。
先日、私が「或る日」の事故から過去の記憶が薄くなり、その記憶を取り戻す1つとして、ブログに固執している事実を述べた。
柳さんは、外国の多重人格者を挙げながら、柳さん自身も或る期間の記憶が欠落していると吐露している。
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過去の堪え難いストレス蓄積が「OVER THE TOP」を迎えると、脳が自己保持の為、一定期間の嫌悪する記憶を自ら外に弾き出す。
それが上例では別人格の発現となっている。
然し、日本では多重人格者は少ない。
どちらかと言えば、私や柳さんの様な記憶欠落・人格障害は多いが・・・。
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私は、1980年の「或る日」以前の記憶欠落に対し、様々な手段での自己分析を行うことで、かなり引き出しは拡がった。
それは、自分で自分に対して、麻酔無しでメスを入れるという行為。
激痛の中、鬱血した血しぶきが飛ぶ。
そこから見えてくる、父が母を虐めた場面・永遠に途絶える事無き毎日連続の不和喧嘩の蓄積+血縁を通した気違いのDNA。
様々な鬱血の要因。
それに依る脳のSPIN。
激痛に意識を失いそうになりながらも、意識が阻害してきた記憶の断片が血の中に見えてくる。
だが、要因はそれだけでは無い。
それは、永遠に根底で横たわる「人間としてこの世に放り出された」解答亡き不条理である。
私の身に、いつENDマークが出るかなんて知ったことじゃねぇが!
進行する死への確実に落ちていく時間の不可逆の一瞬一瞬を生きながら、失われた記憶奪回と、不条理への抗いに突入し続ける意志を諦めはしない。
神など居なくとも、或る神的存在へのツバを吐く無謀あるのみだ。
それが私の死までの基軸と道程である。
痛みを持つ者として、その後遺症がどれほどのものか、察するに余りあります。
私の「或る日」は1982年でした。
いずれ聴いていただくかもしれませんね。
異星人が決定的に、その後の自身のあり方/ものの見方を固めてしまったその出来事とは、
やはり生きている限り闘いが続くことでしょう。
私の業界には、
トラウマがきっかけであったり
そもそもは自分探しが目的の方が多く棲んでいます。
その存在は否定するものではありませんが、
私自身、売るほどある傷/闇が、この仕事で何がしかの変化をするとは思いません。
そして研究が進んで病の分類(括り)や療法(医療)が多岐にわたっても、
何らこの痛みの軽減の突破口にはなり得ないことでしょう。
だから、日々糸口は自分で。
目、耳、口…体に入れて強化するべきもの、
排除していくもの。
今日、やっと「ANOTHER GREEN WORLD」と対面しました。
どう入っていくことか、愉しみです。
自分の記憶として認識できてないところを
探っていくというのはどうなんでしょうね?
自分自身についてきたであろう嘘や、まやかしまで引っ剥がした奥にあるものを
覗くというのは不自然だったり危険を伴うのかもしれません
すぐに思いつく範囲でイーノ、ジョンレノン、ジョンライドンあたりは
病気や事故で一度死にかけているんですね
いったい何を目撃し何を考えたのか解りませんが
死に直面した事のある人の作品は影響力が違うのは確か
2011-01-15 03:18:24
今日は、月曜の備えとして仕事が遅かったので、脳はOverTheTopではありますが、眠れず、つらつらと独白でも・・。
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自分も聖人君子では無いので・・・。
というか聖人君子も神も居ない。
みんな、多重人格には分かれないが多面的ではある。
いちおうそれら全部を包括して「Self」と言っていますが。
「わたしとは何ですか?」
という質問に即回答は出来ない。
そもそも「自分」など無い、と養老先生は本で書いていますが。
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TPOあれど、電車で揺られていると、1人1人それぞれは一同に同じ電車に乗り合わせていますが、帰ったら夫婦喧嘩もすれば、暴力を振るったり、SEXもしたり、当然排泄もあれば、ヤクをやっているかもしれない。
そのある局面ですれ違って、乗り合わせただけのこと。
そこでサリン事件でも起きれば、急に居合わせたたまたまの他人同士は、他人同士ではなくなったりもする。
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80年代は「ブリッ子」という言葉が流行りました。
過去には「表と裏」という日本人独特の二重構造がベストセラーにもなりました。
小此木さんの「モラトリアム」の本も80年代だったと思います。
85.04→87.03の18~ハタチの素浪人時代の精神危機は、結果、自殺未遂に終わりましたが、その時期起きた事件というのは、とても記憶に強く残っています。
三島由紀夫が「戦時中は死と隣り合わせだった事が幸福だった」と言っていますが、自分の場合は周囲が迫ってくる恐怖との闘いでした。
それは、戦時中でも無い80年代の事ですが、多大な圧力が掛かっていたのは事実。
そんなさなか、1986年4月8日のうららかな春の天候快晴の日に、岡田有希子さんは飛び降り自殺をしました。
その夜、恐怖が更に増して、眠れなかった事を覚えています。
なぜ、恐怖だったのか?
自分でも把握はしきれていません。
山崎哲さんや大塚英志さんの影響を受けすぎだし、死人に口無しですが、「ブリッ子」的なアイドル観(公の顔)と「Behind The Mask」(私の顔)の「はざ間」。
彼女の残した日記を頼りに2人は考察していますが、「私」の形跡が無く、日記まで「公」に埋め尽くされてしまった事と、本来あるはずの「私」が跡形も無い事に、その「はざ間」の齟齬に拠って、死に向かわざるを得ない心的現象状態に陥ったと考察されていました。
自分も振り返るに、社会が強要する圧力に心的状態が引っ張られてしまい切ったというのが、この2年の最終形だったと認識しています。
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社会の中に、今も居る以上、社会的強要を無視は出来ないが、今では20歳の自分では無い。
それなりの血反吐は吐いてきたので、社会との距離感の統制は多少マシにはなった。
自殺するという事からは、かなり遠くに来たとは思っています。
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太宰治の「親友交歓」という短編に、友人がいきなり来て、酒を振舞え、カネを出せ、さんざん居て言いたい放題言った挙げ句、最後の言葉は「えばるな!」と言う作品です。
これは、MZ師との共通認識だが、物書きである事自体が嘘つきなのだという事を、見事に表現した作品だという点。
自分もしょせんはそのたぐいだとは思います。
では、「本当のコト」とは、何なのでしょうか?
明日のいくさの為に、すっかり脳がWAR状態で在りますが「なるようにしかならない」のでしょう。
かなり精神状態がピリピリしているのは事実で、すみません。
修業が足りませんね。
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エイリアンが、落ちてきたこの世で「棲む」には、多くの失敗を経た上で知る智恵が要るものですね。
さくりんさんの業界の話の中で「何らこの痛みの軽減の突破口にはなり得ない」事を自分がカラダで理解するに至るには、かなりの時間と失敗が必要なんだと思います。
DAVID SYLVIANの「フォービトンカラー」の詞にも似たような想念があります。
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イーノは、交通事故で死にかけてから、思想が変わり、アンビエントの世界に行きます。
「アナザーグリーンワールド」も、事故後の作品として、ソロ1~2枚目には無い世界を描き出しました。
まさに神の領域のようなイーノの真骨頂。
個人的には、B面後半の「ザヴィヌル/ラヴァ」から終わりまでの流れが特に好きです。
普段は気にも留めない音や光、
弱っているとその攻撃力に気付くものですね。
そんな時でもこうして立ち寄れる場所があるというのは、ありがたいですね。
そして、こんな時に聴ける音楽がある。
イーノを教えてもらって良かったです。
文面から想像するに、寝たまんまなのでしょう。。。。
自分は、幼少からガリガリで病弱だったからかもしれませんが、80歳を迎えたお袋さんがギンギンのロックを聴くのと間逆で、些細な音・穏やかなものに惹かれます。
そういうものへのいとおしさは、未だ弱い自分のベースになっていることは事実だと思います。
但し、三島が肉体への渇望と徹底した攻撃的人生に転換したように。。。「窮鼠ネコを噛む」ように。。。長い旅の中で悪戦苦闘しながら、ボクも心身強化を図っては来ました。
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「普段は気にも留めない音や光、
弱っているとその攻撃力に気付くものですね。」
そういう知覚的想いは、元病弱だった自分にも伝わってきますよ。
とにかく、そのままそのまま。。。
無理をしない。。。
イーノがアンビエントという概念を発見したのも、身動き出来ない程の交通事故の病床だったと言います。
静寂に秘めた優しさと悟り。
「全ては夜に溶けてゆく」
82年時点でのインタビューで、イーノは、こう言います。
「うるさいロックに関わるのはこりごりだ。
今、静かなものがあったら、そこにこそ、大きなムーヴメントが・ドリーミーな世界が・あると僕は思っているんだ。」
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音楽-静寂-夢的心の在り方
ボクも、秋以降、ここ2年の闘いの疲れが様々な病状として出てきたので、平日は淡々と・・そして金曜業務終了後からはだらりんちょんですが、
それでいいんだ、と言い聞かせます。
「動きたくなれば勝手に動く」。
賢い動物たちは「冬眠」しますし。
「休日を活発に活用」なんていうウソを平気に付く奴が多いですが、「活発に」というのが実に胡散臭い。
連休になると、遠距離までレジャーに行く人が居ますが、多くの人が疲れて帰ってくる。
ボクはそんなのは、メディアにあやつられた「ウソ」と思います。
少し近所を歩いてみる。
写真を撮ってみる。
ノラネコとたわむれてみる。
たった1枚のレコード盤を、顕微鏡のように眺めて1日を、そこに費やす。。。
そういうのが、しあわせの発見だったりするのかな。。。
と感じます。