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多摩美講義。ソル・ルウィットと構造主義について。
.ルウィットの言葉に反応するなどということは、ちょっとまえには考えられなかった。いまは、とても面白いと思う。
「アーティストがコンセプチュアルな形式をもちいるばあい、それはとりもなおさず、プランニングや決定のすべてがあらかじめなされるので、制作はただ機械的におこなわれるということにほかならない。観念がアートをつくる機械になるというのである」
「見る者の知的関心をひく作品をつくるのがコンセプチュアル・アートにかかわるアーティストの目的なので、ふつう彼は、それが情緒的にはドライになることを望む」
「観念は複雑である必要はない。成功する観念はばかばかしいくらい単純である。概して成功する観念は、それがいかにも必然的に見えるがゆえに単純な装いをしている」
「あらかじめプランを設定してからとりかかるのは、主観を避けるひとつの方法である。そうすればまた、それぞれの作品をいちいち設計する必要もなくなる。プランが作品を設計するのである」
「アーティストが複合的なモデュラー方式を採用するとき、彼は通常、単純でとりこみやすい形態をもちいる。形態そのものの重要性はごく少ない。それは作品全体の文法となる。(…)形態は手段となり、この配列が目的となる」
(「アート・フォーラム」1967)
「コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というよりも神秘主義者である。彼らは論理が到達することができない結論に飛躍する」
「成功したアートは、われわれの知覚を変えることによって慣習についてのわれわれの理解を変える」
「作品のコンセプトは作品の質量やそれがつくられるプロセスをふくむことがある」
「プロセスは機械的であり、みだりに変更されるべきではない。」
「仕上げが美しくても陳腐な観念はすくわれない」
「すぐれた観念をだめにするのはむずかしい」
「アーティストが技巧に走りすぎると、見ばえだけがいいアートをつくりかねない」
(『0.9』1969)
「私はできるだけ2次元の作品をつくりたい。」
「コンストラクションをつくり、それを仕上げて壁にかけるより、直接、壁に制作するほうが自然だと思われる。」
「壁の種類が違えばドローイングの種類も違ってくる。」
「ドローイングは、視覚的に線ができるだけ壁面の部分になるよう、硬質のグラファイトを使ってどちらかというと軽くなされる。」
「単純な3次元ドローイングは、とりこわされるまでは永遠のインスタレーションである。ひとたび何かがなされれば、もしに戻すことはできない。」
(『アーツ・マガジン』1970.4)
「アーティストはウォール・ドローイングの構想を立て、その設計をする。それを具現するのはドラフトマンである(アーティスト自身がドラフトマンを兼ねるのも可)。プラン(文字、口頭、スケッチによる)はドラフトマンによって解釈される。」
「プランの範囲内で、プランの一部としてドラフトマンによってなされる決定がある。ひとりひとりがそれぞれにユニークなので、同じ指示を与えられても解釈が異なり、違ったふうにおこなわれるだろう。」
「アーティストは自らのプランの多様な解釈を許さなければならない。そしてドラフトマンは、アーティストのプランを知覚し、自らの経験と理解にしたがってその再調整をはかる。」
「アーティストとドラフトマンはアートの制作において共働者となる。」
「人によって線のひとかたが違い、言葉の理解の仕方も異なる。」
「ウォール・ドローイングは、そのプランが侵犯されない限り、アーティストのアートである。侵犯されたばあいには、ドラフトマンがアーティストとなり、その作品は彼の作品ということになるが、そのアートはもとのコンセプトのパロディでしかない」
「ドラフトマンはプランを追っていくさいにも誤りをおかすこともある。どんなウォール・ペインティングにも誤りはつきものだが、それらも作品の一部である」
(『アート・ナウ』1971.6)
多摩美講義。ソル・ルウィットと構造主義について。
.ルウィットの言葉に反応するなどということは、ちょっとまえには考えられなかった。いまは、とても面白いと思う。
「アーティストがコンセプチュアルな形式をもちいるばあい、それはとりもなおさず、プランニングや決定のすべてがあらかじめなされるので、制作はただ機械的におこなわれるということにほかならない。観念がアートをつくる機械になるというのである」
「見る者の知的関心をひく作品をつくるのがコンセプチュアル・アートにかかわるアーティストの目的なので、ふつう彼は、それが情緒的にはドライになることを望む」
「観念は複雑である必要はない。成功する観念はばかばかしいくらい単純である。概して成功する観念は、それがいかにも必然的に見えるがゆえに単純な装いをしている」
「あらかじめプランを設定してからとりかかるのは、主観を避けるひとつの方法である。そうすればまた、それぞれの作品をいちいち設計する必要もなくなる。プランが作品を設計するのである」
「アーティストが複合的なモデュラー方式を採用するとき、彼は通常、単純でとりこみやすい形態をもちいる。形態そのものの重要性はごく少ない。それは作品全体の文法となる。(…)形態は手段となり、この配列が目的となる」
(「アート・フォーラム」1967)
「コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というよりも神秘主義者である。彼らは論理が到達することができない結論に飛躍する」
「成功したアートは、われわれの知覚を変えることによって慣習についてのわれわれの理解を変える」
「作品のコンセプトは作品の質量やそれがつくられるプロセスをふくむことがある」
「プロセスは機械的であり、みだりに変更されるべきではない。」
「仕上げが美しくても陳腐な観念はすくわれない」
「すぐれた観念をだめにするのはむずかしい」
「アーティストが技巧に走りすぎると、見ばえだけがいいアートをつくりかねない」
(『0.9』1969)
「私はできるだけ2次元の作品をつくりたい。」
「コンストラクションをつくり、それを仕上げて壁にかけるより、直接、壁に制作するほうが自然だと思われる。」
「壁の種類が違えばドローイングの種類も違ってくる。」
「ドローイングは、視覚的に線ができるだけ壁面の部分になるよう、硬質のグラファイトを使ってどちらかというと軽くなされる。」
「単純な3次元ドローイングは、とりこわされるまでは永遠のインスタレーションである。ひとたび何かがなされれば、もしに戻すことはできない。」
(『アーツ・マガジン』1970.4)
「アーティストはウォール・ドローイングの構想を立て、その設計をする。それを具現するのはドラフトマンである(アーティスト自身がドラフトマンを兼ねるのも可)。プラン(文字、口頭、スケッチによる)はドラフトマンによって解釈される。」
「プランの範囲内で、プランの一部としてドラフトマンによってなされる決定がある。ひとりひとりがそれぞれにユニークなので、同じ指示を与えられても解釈が異なり、違ったふうにおこなわれるだろう。」
「アーティストは自らのプランの多様な解釈を許さなければならない。そしてドラフトマンは、アーティストのプランを知覚し、自らの経験と理解にしたがってその再調整をはかる。」
「アーティストとドラフトマンはアートの制作において共働者となる。」
「人によって線のひとかたが違い、言葉の理解の仕方も異なる。」
「ウォール・ドローイングは、そのプランが侵犯されない限り、アーティストのアートである。侵犯されたばあいには、ドラフトマンがアーティストとなり、その作品は彼の作品ということになるが、そのアートはもとのコンセプトのパロディでしかない」
「ドラフトマンはプランを追っていくさいにも誤りをおかすこともある。どんなウォール・ペインティングにも誤りはつきものだが、それらも作品の一部である」
(『アート・ナウ』1971.6)