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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

黒い大陸

2007年10月10日 | Weblog
10/10
専修大学での講義。キュビスムについて。意気込みすぎて、詰めこみすぎの内容に、話す自分が疲れてしまった(爆)。

ところで、大学というのは、個性がある。事務職員の対応は本当にぼくがこれまで関わった全大学で違う。学生の顔つきなんて本当に違う。でも、それに当人たちは気が付いていない様子。これが自分の大学生活ではなく、これが大学というものの生活だと思いこんでいる。他大学に友達が居たりしたら、すぐに分かることだろうけれど、全然違うのだ。と、午前中なのに帰り道(一限の講義なので)、学生たちの登校姿を眺めながら思った。皆同じ顔をしている。ちょっと暗い、睨むというかあきらめたような顔。なんでだろう。朝で眠いのかも知れないけど。国士の学生は、基本人なつっこい笑顔をもっている。ぼくの母校上智大は、ひとりで歩いていても、女子学生たちがほぼみんな笑顔で校内を闊歩している。東大は、いまはちょっと違うけど、ぼくが入学した十年ほど前は、大体女子学生はカリカリした顔で歩いていた。多摩美は、上智に近い。やわらかい表情の学生が多い。のどかからかな。

昼食後、三時から、和光大学でポール・ギルロイを囲むイベント(上野、毛利、鈴木慎一郎という『ブラック・アトランティス』の翻訳者が一文字の教卓でまさにギルロイを囲んでいた。ちなみに通訳は、木幡和枝)があるのを知り、時間があったこともあって(いや、やるべき課題をちょっと脇に置いて、、、)、行ってみた。何分、歩いて十分なので。内容は、「Could You Be Loved」というタイトルで、ボブ・マーリィの近年の受容と彼の生涯から、彼の音楽の今日的可能性について計る、といった内容だった。最後は、彼が解く「Human」「Love」というキーワードに、既存の(人種に基づくヒエラルキーに縛られた)人間性や愛の観念とは異なるより本質的な根本的な人間性、愛の在処を見る、というところに結論が向かった。それって、「統制的理念」として?って思ってたら案の定、というかあれーってな感じで、最後の最後のギルロイの言葉が、カンティアン的なコンセプトをさらに更新する形でのコスモポリタニズムをそこに読み込みたいというものだった。うーん。それは、正しいベクトルだとは思うけれど、正しいというか当然であって、やや「カント落ち」みたいに感じるorとしてしか感じない、のだった。それはもう誰が考えたって、カント的なものの再考だよ、必要なのは。でも、それを具体的にどうすればいいのか、具体案を議論しなきゃ、ただ「かっこいい正論」で終わってしまうよ。彼の血筋から彼のハイブリディティを解く辺りも、なんか、じゃあ血縁が本質なのか?ギルロイさんはそう思っているわけ?と感じてしまう。レフティー系のひとのかっこいい話は、ちょっとぼくは苦手だな。そのなかのヒロイズムがいやだ、のみならずそれで大学の地位や経済が得られていることにも。