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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『沈黙とはかりあえるほどに』

2007年10月14日 | Weblog
10/14
風邪気味。テレビは完全につかなくなった。音だけ。真っ黒な画面、その暗さほどに気分が暗くなるぼくは完全なテレビっこだ。そうだ、そうだよ。頼むから、ねえ、ついてよトリニトロン。吉祥寺で昼ご飯食べながらN社の方とミーティング。世代が違う。だから得られる刺激がある。少しづつ息が合ってくる感じとかも、なんかすごく嬉しいのだった。『サッドヴァケイション』の話で盛り上がる。見た方がいいですよ、本当に。


金魚(鈴木ユキオ)『沈黙とはかりあえるほどに』(@TEMPORARY CONTEMPORARY)を見た。
「なぜ踊るのか」という苦しい問いに、ずっと真摯に向き合い続けているというのがぼくの鈴木ユキオに対する印象だ。本作で鈴木は、その苦しさを決して安易に何かに昇華することなく、にもかかわらず、ある活路を見出したかにぼくには見えた。それは、暗黒舞踏がいまのなおぼくたちに投げかけ続けている根本的で決して色あせない問い「踊りとは、命がけで突っ立った死体である」というときの「死体」とは何か、へ何らかの返答を試み続けるという路だ。

フライヤーに用いられた冬の山脈の鋭い起伏に似た、線状のでこぼこの付いた鉛の板、それが舞台前景に膝あたりまで積み上がった木板の上に敷かれている。いつものように、気がついたらこんなところに来てしまったみたいなガリヴァーみたいな戸惑いと共に鈴木は登場して、その鉛を腕でこすり始める。平たいところからでこぼこに「こすり」が移ると、そのひっかかる感触が過剰に増幅して、とっぴょうしもない身体の運動を起動させる。何度かその「こする内に身体がはねてしまう」を繰り返すといつか身体は自律する。身体にバネがはいってて、そのバネが自分でもどうすることも出来ないくらいの「とび」や「はね」を生んでしまう、そんな強く、堅く、なのにゴムみたいな不思議な運動。自分でしているのに、自分から切り離されてもいるような。かといって、どこまでも自分から動機づけられて始まっているとしか思えない運動。

特徴的だったのは、シャツの胸の辺りを自分で掴んでその腕で自分を振り回しているかのような仕草。水に溺れて、藁にすがろうとしたらその藁が自分の衣服だったような、救いのなさ。でも、その救いのなさにしか救いはない。これが安易に救われてしまう欺瞞はかなわない、そんな泥沼に飛び込む。

それにしても、そんな鈴木のダンスがなんとシャープでかっこいいことか。強烈に見応えのあるダンサーだよ。不格好で不器用にも見える腕や脚の軌道は、しかし一貫した動因に導かれていることを感じさせる、強く揺るぎない線であって、美しい。キュビスムが1910年頃に新しい線を見出した時のような、驚異をともなった美しさがある。そして、その美しさは、恐ろしい。そこには中身が詰まっていない。空っぽ。何かの動因があることは分かるが、それを内面性とか人間性とかに還元出来ない。気づいたらただそう動いてしまっている、身体はだから内面のない箱のようにさえ見える。

「沈黙」とは、ケージのサイレンスのことかもしれない。途中、無気力なほどに日常的な口笛を「ピー」とただ漏らすその音、のサイレンス。手あかのついた楽音ではなく、ものとして自然としてある音。それがサイレンス(沈黙)だとすれば、それと「はかりあえるほど」の身体性あるいはダンスを目指すことは、そうした箱が踊る、という境位に身体をそしてダンスを置くということになるのではないだろうか。そして、鈴木はタイトル通りの、少なくともその「沈黙」と「ダンス」が等価になる「ほどに」を目指す作品を確かに提示したのではないか。

女2人(安次嶺、原田)が出てくる。膝を曲げてヘッドバンキングしつづける。そこに快楽も苦痛も受け取れない。ただ、そう、している。ただそうしているのを示す巧みな仕掛けは、おかしなポーズをすること、か。例えば、しこをふむような姿勢でじっとする横山。理由無くただここに身体があること、それを開くことが、「なぜ踊るのか」の理由なのだ、そう言っているように思えた。今作『沈黙とはかりあえるほどに』は、その苦しい答えが明るい真実に反転するための、その準備体操のような何かではないか、とぼくは思った。