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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

上智の研究会(現代美学研究会)

2005年04月11日 | Weblog
のために、ポール・ド・マン『理論への抵抗』を読む、午前(4/11)。
外は雨が降り出した。しとしと具合が春っぽい。けど、ちとへこむ。低気圧は苦手だ。

ド・マンは、ベンヤミンの『翻訳者の使命』を引き合いに出しながら、原作の意味を伝達する手段として翻訳を考えるべきではなく、むしろ原作の言葉が持つ独特な「言い方」、ぼくの考えで言えば言葉の身体性をトレースしようとしてうまくいかず失敗することこそ、翻訳の意義だという。失敗するところで「とどかねー」とのぞき込んだ深淵にこそ、ふだん使う言葉がもともとそこにあったところの「純粋言語」が垣間見えるからだ。この翻訳の失敗(翻訳不可能性)に注目するところが、ド・マン=ベンヤミンの独自性なのである。

これ、翻訳を批評と言い直すことが出来る。さて、批評はならば、批評の失敗として自らを呈示することに独自の意義を見出すべきなのだろうか、否か。
個人的なこと言えば、『TH』に寄稿した少女=人形論はそういうスタンスで書いた。だって少女のことよくわかんないだもんね、ぼくには。いや、自分の欲望の対象として勝手に定義することは出来る、でも、それは男の欲望を彼女たちに投影しているだけで、そこで鏡となった彼女たち自身については全然わからないまま、じゃん。だから、ぼくは分からないものとして少女を置いた、そこには少女だけではなく少女を捕まえようとして失敗するぼくが描かれていたはず、そういう誠実さを目指してぼくはあれを書いた。

なーなんてこと、思い出しながら、研究会のいつものメンバーと静かに盛り上がる。

その後、田舎で塾をやっていたころの学生と飲む。ぼくと同じ上智に入った彼は楽しそうに部活のこととか喋ってくれた、ニコニコしてしまう、これまたかつていつも研究会の後行っていた「桑」という居酒屋でしゃべっていると、マスターが揚げた「たらのめ」をお裾分けしてくれた。春の匂い、だなー。

ところで、
上智大学で一ヶ月に一二回やっている「現代美学研究会」は、今年度「現代美術批評を読む」というテーマでいくことにしました。「現代」「美術」「批評」とはなんぞや?知っているようであまり知らない、のはよくないぜってことで、グリーン・バーグから、マイケル・フリード、ロザリンド・クラウス、ハル・フォスター等々のアメリカを中心とした90年代以降の批評の言語の検討を目指します。どなたでも、興味を持った方は自由にご参加頂けますので(学生、社会人、素人、玄人まったく問いません)、ふるってご参加下さい。基本的には読書会なのですが、合間合間に上智大の先生や、美術系批評家の方にきて頂きレクチャーをしてもらうことも考えております(何せ現メンバーにこの分野の専門家と言える人間がいるわけではないので)。
次回は、5/9、岡崎乾二郎『ルネサンス経験の条件』の最初の章(マティス)を読みます。ウォーミング・アップのつもりで。

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