大晦日から今日まで風邪をひいてしまい、コンタック(風邪薬)で朦朧としていました/いますが、この本に励まされながら生きていました。年始にこのような本に出会えて、本当に幸福だ。鈴木雅雄というシュルレアリスム研究者のこの本は、ぼくにとって、シュルレアリスム研究の書であるのみならず、他者(公演という名の、あるいはその他のあらゆる)とどう関わるかへ向けた批評論であり、優れたゆえに「愚か」さを隠すことのない恋愛論であって、不意に拾った下記の引用文をもってぼくの新年の挨拶とさせていただきます(お会いしたことのない「あなた」である鈴木雅雄様、どうか「私」の愚行をおゆるし下さい)。
「シュルレアリスムとは真実と現実との齟齬としての痙攣を指し示すことだと----シュルレアリスムにはそうした側面があるというのではなく、端的にそれこそがシュルレアリスムなのだと----結論することは可能だろうか」(298)
「シュルレアリストたちにとって夢を語ることは、いわば現在のなかで「私」と夢との還元できない距離を提示する実践であると思える。」(299)
「なぜかはわからないがそうでなくてはならない具体的な細部」(302)
「私はあなたの聞いた声を聞くことはできない。しかしそれにもかかわらず、私はあなたがその声を聞いたと思わずにはいられない。私はあなたの語った言葉とあなたとのあいだにいかなる結び付きも見出すことができないが、まさにそのゆえに、私はそこにあなたの痙攣があると思ってしまう。そしてそう思ってしまうことこそが、私の痙攣なのである」(313)
「語る対象に対し、自分をメタ・レベルに置こうとする意図ほどシュルレアリスムに無縁のものはない。だがまた対象と同化し、ついにその秘密を分有したという特権者の自尊心も、そこでは決定的に排除されていた」(321)
「シュルレアリストたちは痙攣者へと盲目的に接近し、共有しえない真実のありかであるはずの彼/彼女の身振りをただ反復することで、彼/彼女とはまったく異なった何かを生み出そうとする。「まず、愛すること」とは、直観による伝達の神秘化ではなく、結果を予期しない狂おしい反復への誘いなのである」(321)
「解釈投与が症状を解消できないとすれば、とりあえず症状のまわりに任意の言葉を巻きつけていくよりほかない。そうした言葉、解釈ならざる解釈は、真実と現実との距離を決して埋められないのであり、したがってそれは「解釈」としては常に挫折すべく運命づけられているのだが、しかしその失敗だけが新たな真実である出来事を生み出す条件となることができる。だからおそらくこう結論できるだろう。もし出来事を呼び出す方法がありうるとすれば、それはただ「私の真実」について、誰かと何かを語ることなのである」(328)
「私の言葉と私の真実との不一致を利用して、無時間的な時間----作品の時間----のなかで書き手と読み手がその「私」を重ね合わせようとする契約関係こそが、近代的な意味での「文学」であるとするなら、どこまでも作品の時間を拒絶し、文学になりえない私の真実をはさんで他者と向かい合おうとすること、まさに文学の不可能性であるこの関係を隠蔽すまいとする契約関係こそが、シュルレアリスムの複数性である」(330)
「いうことの不可能性を共有するのではなく、私とあなたとははじめから向かい合っており、その関係の非対称性によって働きかけ合うことができる。顔を失う必要も供犠を介する必要もなしに、さらには一旦意識を失って恍惚のなかに投げ出される必要すらなしに、真実と現実との齟齬という形で、私とあなたとは痙攣を受け渡しあうことができる」(331)
「精神分析は、それが不可能であることによってこそ美しい。そうでなければ私たちは再び、あなたの真実はどこから、なぜやって来たのかという問いを立ててしまうことになる。私とあなたとは、共有しえない真実を前にして、その共有不可能性によって否定的な共同体を作ってはならないが、終わりなき分析----なぜを問い続けること----に陥ってしまえば結局あの距離の体験は解消されてしまう。共有できない真実をいかに機能させることができるかという問いを問い続けることでだけ、私はあなたとともにあることができるのだ。」(332-333)
「シュルレアリスムが私たちに教えているのはだから、ある単純な事実、なぜという問いにからめ取られてしまったとき、私たちはそれを解決することができず、ただ忘れることができるのみであり、そしてそれを忘れるために私たちが手にしている唯一の方法は、愛することだという事実なのである」(333)
「シュルレアリストたちには、何か決定的な愚かさの印象がつきまとっている。作品などどうでもいい、私は愛さなくてはならないのだからと、そんなふうにいえてしまうあの性急さは、たしかにさまざまな理論的ディスクールとの対峙を迫られたとき、きわめてもろい。私はだから、その愚かさこそがシュルレアリスムの可能性であることを証明したいと思った」(366)
「意図して愚かであることは不可能だが、誰かとともにあることでそれは可能になる場合があり、またその可能性がゼロでない程度には、私たちはみな愚かなのではなかろうか。自分についてなら確信がある。いえることだけいおう。いずれにしてもエルモアの名前を口にするだけで充分だ」「実に馬鹿げた話だが、私は自分がいつかクラシックやジャズを愛聴する誰かと、(友人になることはあっても)ともにあることはできないという確固たる確信があるし、そうでない世界を想像することはできない。エルモアという名のティッシュペーパーが大量に積まれているのを見ると、私は今でもいくらかたじろぐ。」(366-367)
鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』より(著者による傍点は割愛させて頂いた)
「シュルレアリスムとは真実と現実との齟齬としての痙攣を指し示すことだと----シュルレアリスムにはそうした側面があるというのではなく、端的にそれこそがシュルレアリスムなのだと----結論することは可能だろうか」(298)
「シュルレアリストたちにとって夢を語ることは、いわば現在のなかで「私」と夢との還元できない距離を提示する実践であると思える。」(299)
「なぜかはわからないがそうでなくてはならない具体的な細部」(302)
「私はあなたの聞いた声を聞くことはできない。しかしそれにもかかわらず、私はあなたがその声を聞いたと思わずにはいられない。私はあなたの語った言葉とあなたとのあいだにいかなる結び付きも見出すことができないが、まさにそのゆえに、私はそこにあなたの痙攣があると思ってしまう。そしてそう思ってしまうことこそが、私の痙攣なのである」(313)
「語る対象に対し、自分をメタ・レベルに置こうとする意図ほどシュルレアリスムに無縁のものはない。だがまた対象と同化し、ついにその秘密を分有したという特権者の自尊心も、そこでは決定的に排除されていた」(321)
「シュルレアリストたちは痙攣者へと盲目的に接近し、共有しえない真実のありかであるはずの彼/彼女の身振りをただ反復することで、彼/彼女とはまったく異なった何かを生み出そうとする。「まず、愛すること」とは、直観による伝達の神秘化ではなく、結果を予期しない狂おしい反復への誘いなのである」(321)
「解釈投与が症状を解消できないとすれば、とりあえず症状のまわりに任意の言葉を巻きつけていくよりほかない。そうした言葉、解釈ならざる解釈は、真実と現実との距離を決して埋められないのであり、したがってそれは「解釈」としては常に挫折すべく運命づけられているのだが、しかしその失敗だけが新たな真実である出来事を生み出す条件となることができる。だからおそらくこう結論できるだろう。もし出来事を呼び出す方法がありうるとすれば、それはただ「私の真実」について、誰かと何かを語ることなのである」(328)
「私の言葉と私の真実との不一致を利用して、無時間的な時間----作品の時間----のなかで書き手と読み手がその「私」を重ね合わせようとする契約関係こそが、近代的な意味での「文学」であるとするなら、どこまでも作品の時間を拒絶し、文学になりえない私の真実をはさんで他者と向かい合おうとすること、まさに文学の不可能性であるこの関係を隠蔽すまいとする契約関係こそが、シュルレアリスムの複数性である」(330)
「いうことの不可能性を共有するのではなく、私とあなたとははじめから向かい合っており、その関係の非対称性によって働きかけ合うことができる。顔を失う必要も供犠を介する必要もなしに、さらには一旦意識を失って恍惚のなかに投げ出される必要すらなしに、真実と現実との齟齬という形で、私とあなたとは痙攣を受け渡しあうことができる」(331)
「精神分析は、それが不可能であることによってこそ美しい。そうでなければ私たちは再び、あなたの真実はどこから、なぜやって来たのかという問いを立ててしまうことになる。私とあなたとは、共有しえない真実を前にして、その共有不可能性によって否定的な共同体を作ってはならないが、終わりなき分析----なぜを問い続けること----に陥ってしまえば結局あの距離の体験は解消されてしまう。共有できない真実をいかに機能させることができるかという問いを問い続けることでだけ、私はあなたとともにあることができるのだ。」(332-333)
「シュルレアリスムが私たちに教えているのはだから、ある単純な事実、なぜという問いにからめ取られてしまったとき、私たちはそれを解決することができず、ただ忘れることができるのみであり、そしてそれを忘れるために私たちが手にしている唯一の方法は、愛することだという事実なのである」(333)
「シュルレアリストたちには、何か決定的な愚かさの印象がつきまとっている。作品などどうでもいい、私は愛さなくてはならないのだからと、そんなふうにいえてしまうあの性急さは、たしかにさまざまな理論的ディスクールとの対峙を迫られたとき、きわめてもろい。私はだから、その愚かさこそがシュルレアリスムの可能性であることを証明したいと思った」(366)
「意図して愚かであることは不可能だが、誰かとともにあることでそれは可能になる場合があり、またその可能性がゼロでない程度には、私たちはみな愚かなのではなかろうか。自分についてなら確信がある。いえることだけいおう。いずれにしてもエルモアの名前を口にするだけで充分だ」「実に馬鹿げた話だが、私は自分がいつかクラシックやジャズを愛聴する誰かと、(友人になることはあっても)ともにあることはできないという確固たる確信があるし、そうでない世界を想像することはできない。エルモアという名のティッシュペーパーが大量に積まれているのを見ると、私は今でもいくらかたじろぐ。」(366-367)
鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』より(著者による傍点は割愛させて頂いた)