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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

動物論2

2006年04月01日 | Weblog
下の記事「動物論」からの続きです。まずはそちらから。

土方巽は、67年頃、頻繁に三島の動物園に、娘と通っていたという。

「土方は動物園が好きで、一日中でも像やライオンの檻の前に立っていられた。動物たちの動く様を見ては踊りの形に取り入れていた。のちの公演で、土方の舞踏に黒豹、虎、ゴリラ、猿が形を変え、さまざまなフォルムとなって出てくるのを私は楽しく眺め入ったものだ」(元藤あき子『土方巽とともに』「あき」は火に華)

いまでも、室伏鴻や小林嵯峨がやる暗黒舞踏の「獣」のルーツは、この土方の観察にある。土方が動物からどんな踊りのヒントを得たのかは、簡単には説明出来ない。けれども、ひとつ重要なのは、彼が人間じゃないものの魅力を動物の観察から得ていたに違いないということである。「人間じゃないもの」とは人間の感情移入を端的に拒むもの、ということ。ものを人間化することから遠ざかる土方がしばしば思考において試みるのは、人間をもの化したり、動物化したりすることである。ものに憧れ、動物に没入すること。それは、恐らく自分たちの既存の尺度を超えたものに飛び込むことであり、すなわち「暗黒」に向かうことであったのだ。

動物園でぼくが体験した一種の「めまい」の経験は、土方が試みた暗黒に触れる筋道とそう遠くはないのではないか。

ところで、
異形であることがもつ可能性の追求は、土方が発端となるものだったのか、それともあの70年前後の日本人がともに取り憑かれたひとつの思考の形であると見るべきなのか。

写真は、初代仮面ライダーの第一回目の敵役、クモ男である。この顔の部分が赤くぐちゃぐちゃになったその様を、ぼくは先日の吾妻橋ダンスクロッシングで室伏鴻が顔を手で覆ったとき、思い出していたのだった。後ろから歪んだ五指が降りてきて顔を覆い微妙に動いている間、決して派手ではないけれども迫力のある異形性があらわれた。それは派手ではないが劇的ではあって、もっといってよければ劇画的なのだった(ぼくは以前の記事で今回の吾妻橋をややネガティヴに書いたけれど、少なくともそう読んだひとは思うかも知れないけれど、魅力的な瞬間が随所にあったことは言っておきたい。例えば室伏のこれはその端的な一例だ)。クモ男の異形性は、相当凄い。当時のひとは(また再放送などでちょっと後で出会っていた4,5才のぼくは)、キモイものを「かわいい」のシュガーコーティングで覆う配慮(人間的な、あまりに人間的な)なんてまったく考えていなかった。だから、怖さにかなりの迫力がある。

現在の舞踏は、僅かな例外を残してほとんどこの怖さを追求していない。それは、舞踏から「暗黒」が消滅しようとしていることを示しているのではないだろうか。けれども、この「怖さ」を抜いてしまってよかったのだろうか。ぼくにはそこが、いま何よりも気がかりなのである。

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