「三堀将名勝負名観戦記」(誠文堂新光社)を読むと、昔の囲碁欄のライブ感に思いをはせる気持ちはわからないではない。
が、そもそも将棋界を羨むような現在の書き手のレベルでライブ感を出したところで面白くなるのだろうか?
私は将棋界のレベルでも相当不満なのだけど。
加えて現代の棋士は良くも悪くも観戦記を彩る、鬼気迫るエピソードに乏しい。
数々の死闘を残した本因坊戦からしてこの通りである。
雰囲気としては決して嫌いではないが、観戦記に迫力を出すには不向きであろう。
参考までに2002年将棋世界7月号「対局日誌」より
「佐藤(康光)王将(当時)の前号の自戦記が棋士間で話題になっている。
『言うもんだね』という訳。
『未来の棋士達が私の将棋を並べるとする。
(中略)
そういう時に頼りになるのが観戦記である。
夢で見た事があるが百年後のプロが観戦記の手の解説を読み「何だひどい!」「大したことねぇな」と失笑する姿。
これだけは耐えられない』
同じような事を、昔言ったのが山田道美九段で
『(私達の将棋は)観戦記という襤褸を着せられている』
と怒った」
余談だが、文中に出てくる山田道美九段。
著作集が残されているのだが、その内容が凄まじい。
若き日の日記だか何だかで、「私は将棋など指していて良いのだろうか」といった苦悩が延々と綴られているのには、この人は棋士ではなく哲学者かと驚いた記憶がある。
打倒大山康晴に全精力を傾け、その精華、山田定跡にその名前を残したが、36歳の若さでこの世を去った。
が、そもそも将棋界を羨むような現在の書き手のレベルでライブ感を出したところで面白くなるのだろうか?
私は将棋界のレベルでも相当不満なのだけど。
加えて現代の棋士は良くも悪くも観戦記を彩る、鬼気迫るエピソードに乏しい。
数々の死闘を残した本因坊戦からしてこの通りである。
雰囲気としては決して嫌いではないが、観戦記に迫力を出すには不向きであろう。
参考までに2002年将棋世界7月号「対局日誌」より
「佐藤(康光)王将(当時)の前号の自戦記が棋士間で話題になっている。
『言うもんだね』という訳。
『未来の棋士達が私の将棋を並べるとする。
(中略)
そういう時に頼りになるのが観戦記である。
夢で見た事があるが百年後のプロが観戦記の手の解説を読み「何だひどい!」「大したことねぇな」と失笑する姿。
これだけは耐えられない』
同じような事を、昔言ったのが山田道美九段で
『(私達の将棋は)観戦記という襤褸を着せられている』
と怒った」
余談だが、文中に出てくる山田道美九段。
著作集が残されているのだが、その内容が凄まじい。
若き日の日記だか何だかで、「私は将棋など指していて良いのだろうか」といった苦悩が延々と綴られているのには、この人は棋士ではなく哲学者かと驚いた記憶がある。
打倒大山康晴に全精力を傾け、その精華、山田定跡にその名前を残したが、36歳の若さでこの世を去った。
やはり雑誌も観戦記が手の解説ばかりで味気ない感は否めませんね。
もっとも一つの変化図に一つの図を使用せねばならないので、スペース的に将棋に比べ大変だという同情の余地はありますが。
むしろ囲碁雑誌の場で観戦記が頑張って欲しいのですが,何だか新聞のと変わりばえしないですね.もっと冒険して欲しいのですが.