先に掲載した「『次の一手』不要論」は、思った以上に反響がありました。
特に先の「不要論」の中でとりあげた、囲碁雑考に、
まえださん自身から補足がありましたのでトラックバックしておきます。
http://www.pietsch-companion.com/igo_talk/archives/2005/01/post_159.html
> 問題集に載っている問題というのは、
> さすがによく考えられていて(まあ何事にも例外はあるけど)、
> 私ごときの好みによっては変化しない「絶対の一手」が回答になるシーンが選ばれている。
これは私の棋力では確かめる術はありません(笑)。
言われてしまえば「そうですか」と頷くよりないですが、
実際のところ、まえださんの仰るとおりなんでしょうね。
そして、次の
> それなのにこちらの「好み」によって回答を間違えてしまうのは、
> 自分の「バランス」が壊れてしまっているということが本旨です。よ
> って問題集をやって、バランスの崩壊を矯正することが必要になると。
「次の一手」にそういう使い方があるとは、知りませんでした。
私が考えていた次の一手は
「難解な局面が妙手一発でヒックリかえる」タイプ(そんなの真似できねぇ)や、
「凄くオーソドックスな形を紹介している」タイプ(先のログの例題タイプ)で、
後者なら問題にする必然性があまりないだろうと考えていました。
まえださんの仰るのも後者に属するかと思いますが、
しかし「碁に対する感性を矯正するため」、「絶対の一手」なら、
確かに利用価値がありますか。
絶対の一手を打てず、そっぽを打つようでは駄目ですしね。
どうしても囲碁の知識がないので将棋に置き換えてしまうのですが、
例えるなら基本的な「戦いの絶対感覚」シリーズ(河出書房新社)なのかなぁ?
将棋の方にはこういう大局観を矯正する本というのはないのです。
というのも、囲碁以上に「感覚」より「読み」が必要とされますから。
強いて言えば「定跡」を勉強することが、その一助になると思いますが、
将棋倶楽部24の三段に「大局観が悪い」とお墨付きを貰っている身としては、
それも怪しいものですね(笑。私は友人間ではやたら定跡書を読んでいることになっている)。
もうちょっと捻って考えれば、まえださんの仰る「次の一手」は
「大局的な基本手筋」を会得するということでもあるのでしょうか?
つまり広義の手筋集。これなら「絶対の一手」になるのも必然。
そしてそういうことならば、やはり先の「不要論」にコメントくださった、
猿飛佐助さんの
> ワシは碁でも何でも最初の出だしは教わらなくてはなかなか難しいと考える。
というのはよくわかります。
囲碁も芸能の一つですから、
日舞や歌舞伎、能あるいは剣道、柔道といったところの、
基本的型をしっかり会得して、
自分なりの応用をするのはその後、という手法に通じるわけですね。
どだいタイトルにしても、取り上げたテーマにしても、
今の私には分不相応だったかもしれません。フライングですか。
しかし今これを考えてみたことは、それはそれで収穫がありましたし、
ガックリしたということはなく、
もっと強くなって、もう一度このテーマについてしっかり考えられるようになったら、
再度考えてみたいという意欲に燃えています。
しかし、対局できないんですよね…。
最近は時間がとれないのに加えて、パソコンも壊れつつあります(汗)。
特に先の「不要論」の中でとりあげた、囲碁雑考に、
まえださん自身から補足がありましたのでトラックバックしておきます。
http://www.pietsch-companion.com/igo_talk/archives/2005/01/post_159.html
> 問題集に載っている問題というのは、
> さすがによく考えられていて(まあ何事にも例外はあるけど)、
> 私ごときの好みによっては変化しない「絶対の一手」が回答になるシーンが選ばれている。
これは私の棋力では確かめる術はありません(笑)。
言われてしまえば「そうですか」と頷くよりないですが、
実際のところ、まえださんの仰るとおりなんでしょうね。
そして、次の
> それなのにこちらの「好み」によって回答を間違えてしまうのは、
> 自分の「バランス」が壊れてしまっているということが本旨です。よ
> って問題集をやって、バランスの崩壊を矯正することが必要になると。
「次の一手」にそういう使い方があるとは、知りませんでした。
私が考えていた次の一手は
「難解な局面が妙手一発でヒックリかえる」タイプ(そんなの真似できねぇ)や、
「凄くオーソドックスな形を紹介している」タイプ(先のログの例題タイプ)で、
後者なら問題にする必然性があまりないだろうと考えていました。
まえださんの仰るのも後者に属するかと思いますが、
しかし「碁に対する感性を矯正するため」、「絶対の一手」なら、
確かに利用価値がありますか。
絶対の一手を打てず、そっぽを打つようでは駄目ですしね。
どうしても囲碁の知識がないので将棋に置き換えてしまうのですが、
例えるなら基本的な「戦いの絶対感覚」シリーズ(河出書房新社)なのかなぁ?
将棋の方にはこういう大局観を矯正する本というのはないのです。
というのも、囲碁以上に「感覚」より「読み」が必要とされますから。
強いて言えば「定跡」を勉強することが、その一助になると思いますが、
将棋倶楽部24の三段に「大局観が悪い」とお墨付きを貰っている身としては、
それも怪しいものですね(笑。私は友人間ではやたら定跡書を読んでいることになっている)。
もうちょっと捻って考えれば、まえださんの仰る「次の一手」は
「大局的な基本手筋」を会得するということでもあるのでしょうか?
つまり広義の手筋集。これなら「絶対の一手」になるのも必然。
そしてそういうことならば、やはり先の「不要論」にコメントくださった、
猿飛佐助さんの
> ワシは碁でも何でも最初の出だしは教わらなくてはなかなか難しいと考える。
というのはよくわかります。
囲碁も芸能の一つですから、
日舞や歌舞伎、能あるいは剣道、柔道といったところの、
基本的型をしっかり会得して、
自分なりの応用をするのはその後、という手法に通じるわけですね。
どだいタイトルにしても、取り上げたテーマにしても、
今の私には分不相応だったかもしれません。フライングですか。
しかし今これを考えてみたことは、それはそれで収穫がありましたし、
ガックリしたということはなく、
もっと強くなって、もう一度このテーマについてしっかり考えられるようになったら、
再度考えてみたいという意欲に燃えています。
しかし、対局できないんですよね…。
最近は時間がとれないのに加えて、パソコンも壊れつつあります(汗)。
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