「中国史の真実を語る」
第94回東アジア歴史文化研究会 春慶寺 2013年2月6日
東洋史家・東京外国語大学講師 宮脇淳子氏
1.「中国五千年」も「中国人」も、20世紀に日本に対抗して誕生した言葉である
BC221年 中原を統一した秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の「秦」が、英語のChinaと「支那(しな)」の語源である。
1894~95年の日清戦争に敗れた清は、1896年から留学生を続々と日本に派遣した。清国留学生も初めは自分たちの国土を支那と呼んだ。ところが「支」も「那」もよい意味ではないので、「中国」と言い換えるようになり、辛亥革命のとき、革命派が「黄帝(こうてい)即位紀元4609年」としたのが「中国五千年」の出所である。これは「神武天皇即位以来の神国日本」の倍は古いという主張で、「黄帝の子孫の中華民族」は、「天照大神の子孫の大和民族」に対抗して創った概念である。
2.日本は明治維新で国民国家化に踏み切ったが、清朝と朝鮮は遅れた
国民国家(nation state)とは、国境に囲まれた国土の中に住む人々が、同じ言葉や同じ歴史や同じ文化を持ち、国民として平等の権利を有するという思想で、18世紀末のアメリカ独立とフランス革命で誕生した。日本は、1868年の明治維新以来、西欧列強の植民地にならないため、国民が一丸となって努力し、それまでの中国文明に由来する一切の制度を放棄して、西欧・北米の制度に全面的に切り替えた。清朝はもともと五種族の連合帝国であるし、朝鮮は階級差が激しく、日本のようにはまとまらなかった。日本ほど、この理想にあてはまる国家は、世界上に存在しない。
3.清朝(1636-1912)は、五大種族の同君連合帝国
清朝は、万里の長城の北で建国され、満洲人、モンゴル人、漢人、チベット人、イスラム教徒の五大種族の同君連合帝国だった。モンゴルとチベットと回部は藩部(はんぶ)と呼ばれ、自治を許され、漢人の移住は禁止されていた。彼らは種族ごとに宗教も言葉も法律も違い、満洲語が共通語だった。ところが1840年のアヘン戦争で英国に敗れたあと、1851~64年の太平天国の乱で南方が乱れ、1865~77年イスラム教徒が反乱を起こした。1884年 清朝は藩部自治の原則を破って新疆省を設置し、漢人に行政を担当させる。台湾が省になったのは翌1885年である。
4.日清戦争の原因は、フランスにベトナムを取られた清が、朝鮮を併合しようとしたから
1853年 アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが黒船四隻を率いて日本の浦賀に来航する。
1854年 日本はアメリカの軍事的圧迫に屈服して開国、日米和親条約を結ぶ(不平等条約)。
1868年 明治維新
1871年 日清修好条規調印。7世紀末日本国が誕生してから初めて中国大陸の政権と正式な条約。
1876年 日本が日鮮修好条規(江華島条約)を朝鮮と結び、清の宗主権を否定する。
1884年 ベトナムの保護権をめぐって、清国とフランスの間に清仏戦争が起こる。
1885年 前年フランス艦隊が台湾を封鎖したため、清国があわてて台湾省を設置、朝貢関係のあった朝鮮に宗主権を行使したので、朝鮮の急進改革派は日本に頼って独立を求めた。
1894年 日清戦争始まる。日清両軍が朝鮮で開戦、黄海の海戦で清の北洋艦隊が全滅。
5.中国の近現代史は、1840年のアヘン戦争ではなく、日清戦争に敗れたときに始まる
1840年のアヘン戦争でイギリスに負けて、中国の半植民地化と屈辱の近代が始まる、という歴史は、1937年の支那事変のあと、中国共産党の正統性を証明するために毛沢東が創り出した。日清戦争の敗戦によって本格的な近代化が始まったと正直に言うと、日本の存在を認めることになるからである。実際には、清朝はアヘン戦争のあとも英国を「英夷」と呼んでいるし、国民意識もまだ生まれていない。1895年日清戦争に敗れた清は、下関講和条約で朝鮮の独立の確認、日本に遼東半島と台湾を割譲した。しかし、露独仏の三国干渉で遼東半島は清に還付、その報酬としてロシアは旅順・大連、ドイツは膠州(こうしゅう)湾、フランスが広州湾、英国も威(い)海(かい)衛(えい)・九(きゅう)龍(りゅう)半島を租借、列強による植民地化が一挙に進むのである。1905年には科挙(かきょ)を廃止し、留学生を官吏に登用。
6.朝鮮の支配層はロシアを頼り、朝鮮王が韓国皇帝を名乗る
李氏朝鮮時代の500年間、朝鮮半島は、一割にも満たない両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が、中人・常民・・を支配していた。階層の移動はなく、とには人権はなかった。13~14世紀のモンゴル支配時代にはいた羊もいなくなり、木を丸める技術がなくなったので、樽も車もなく、染料を買う金がないので白い服しか着なかった。下層階級は日本のような四民平等の近代化に憧れたが、貴族は特権維持のため、最初は清朝に頼り、日清戦争で日本が勝利した後は、三国干渉を見た朝鮮の閔(びん)妃(ひ)一族がロシアと結んだので、1895年三浦梧楼(ごろう)公使が、閔妃を殺害した(現在では三浦梧楼暗殺説が疑問視されている)。
1896年 ロシアは、朝鮮王高宗をロシア公使館に移し、親日的改革派を殺害させた。
1897年 ロシア公使館から王宮に戻った朝鮮王高宗が、国号を韓と改め皇帝を名乗る(韓国皇帝)。
朝鮮はつねに中国皇帝を宗主と仰ぎ、一段格下の王号しか持たなかったが、日清戦争で日本が勝利したので、歴史上初めて皇帝を名乗った。韓国は、今でも日本天皇を「日王」「倭王」と呼ぶ。
7.ロシアの満洲支配と日露戦争
1896年 ロシアが満洲里(まんしゅうり)から沿海州にいたる東清鉄道敷設権を獲得(賄賂300万ルーブル)。
1898年 ロシアがハルビンから旅順、大連に至る南部支線の敷設権と関東州の租借権を得る。
1900年 義和団事件に乗じて、ロシアが満洲を占領する。
1902年 英国と日本が日英同盟を結ぶ。
1904年 日露戦争始まる。清朝は局外中立を宣言。
1905年 5月日本海海戦、9月ポーツマスで日露講和条約。日本は韓国の保護権、南樺太、遼東半島、東清鉄道南満洲支線(南満洲鉄道)の経営権、沿海州の漁業権を獲得した。12月満洲に関する日清条約を調印、ロシアから譲渡された権利を清が確認。
1906年 8月遼東半島の租借地に日本が関東都督府を設置、11月満鉄(半官半民会社)誕生。
1907年 清朝が東三省を設置する。四回にわたる日露協約の秘密条項で、北満洲はロシア、南満洲は日本の特別利益地域に分割。1910年日本韓国併合。
8.1911年の辛亥革命は新軍のクーデター、1912年に清朝皇帝は平和裏に退位した
下の地図の太線で囲んだ中の白い部分が、現在の中華人民共和国の領土である。極太線が1911年10月の辛亥革命で清朝からの独立を宣言した14省、当時の清朝領土の三分の一ほどだった。
1911年10月 日本の陸軍士官学校に留学した将校たちが清朝に反乱=辛亥革命(武昌起(ぶしょうき)義(ぎ))。
12月、17省の代表の選挙で臨時大総統に孫(そん)文(ぶん)が選ばれ、1912年1月1日中華民国臨時政府が樹立、清朝は北洋軍閥袁世凱(えんせいがい)を総理大臣に任命し、革命派を討伐させるが、孫文は清帝を退位させたら大総統の位を袁世凱に譲ると密約したので、袁世凱は6歳の宣(せん)統(とう)帝(てい)溥儀(ふぎ)と父の摂政を説得、2月12日、溥儀は生涯紫禁(しきん)城(じょう)で生活し歳費を支給されるという条件で退位し、清朝が崩壊した。
9.中華民国(1912~)は国民国家とは言えないし、統一もされていなかった
1912年、清朝と中華民国が対立して南北戦争になるのを阻止したのは袁世凱である。彼は日英仏独露との間に五国借款を成立させて正式の大総統に就任したが、世襲大総統から皇帝になったのを部下に反対され、1916年に病死、中国は軍閥闘争で四分五裂する。1924年、軍閥の馮(ふう)玉(ぎょく)祥(しょう)に退位の際の優待条件を反古にされて紫禁城から追い出された溥儀は、日本租界に逃げ込み、その後、1931年の満洲事変で1932年に成立した満洲国の摂政となり、1934年に皇帝となる。
10.ロシア革命(1917)とコミンテルン(1919)が、中国の反日ナショナリズムを生む
1917年 ロシア革命、ロシアは日露戦争後に日本と結んだ密約を公表し、中国の反日を煽る。
1919年3月世界同時革命を目指すコミンテルン結成。五・四運動が中国最初のナショナリズム。1915年の21箇条要求は、日露戦争後に日本が清と結んだ条約を中華民国に再確認させるものだったが、五・四運動はこれに非難の矛先を向けた。これから日本と中国の関係は180度変わる。日清戦争以来、日本をモデルに近代化に励んできた中国人は、このとき孔子を初め自分たちの過去の文明を一切否定すると同時に、それまで中国の近代化に日本が果たした役割も完全に否定した。
11.ソ連成立(1922)と、中国で国民党と共産党の合作(1924)
広東省の客家(はっか)出身の孫文は、14歳で兄に呼ばれてハワイの教会学校に入ったのが教育の始まり。伝統的な漢文を学ぶ「読書人」ではなく、新思想にかぶれた「文化人」。18歳で香港で洗礼を受けて医学を学び、英国の医師免状を受けた華僑である。彼は日本人の援助で革命を行ったが、すべて失敗、日本人の援助が得られなくなったので、思想的には異なるソ連の工作を受諾した。
1924年 第一次国共合作「連(れん)俄(が)(ソ連と提携)・容共(ようきょう)(共産党員の加入)・扶助農工」。
1925年 孫文が北京で病死したあと、1926年に蒋介石率いる10万の国民党軍が北伐を開始する。1927年 上海で英米仏日軍が北伐軍と対峙、蒋介石のクーデターで国共合作が破綻する。
12.張学良のナショナリズムと排日運動、満洲事変(1931)から満洲国建国(1932)
1928年の張作霖の爆死後、満洲の実権をにぎった張学良は、いまや中華民国となった土地から日本人を追い出すため、激しい排日運動を展開した。日本が認められていた土地商租権を、中国侵略の手段であり領土主権の侵害であるとして「懲(ちょう)弁(ばん)国賊条例」を適用、1929年には「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」など60におよぶ法令を発して、土地・家屋の商租禁止と、以前に貸借した土地・家屋の回収をはかった。最も被害を受けたのは日本人として入植した朝鮮人で、日本の投資に対する保証や見返りなど考えず、ここは中国なのだからすべて置いて出て行けと言うばかり、現地居留日本人の危機感はつのり、窮状を打破するには武力による解決もやむなしと考えるに至った。
13.日本は国民国家であるが、中国は国民国家になれない
現代中国は、じつは日本をみならって近代化を始めたため、日本型国民国家を目指しているが、歴史的背景と国土の違いから絶対不可能である。共産党政府は少数民族の土地を奪って、その言語と文化を抑圧する植民地政策を取り、農村籍と都市籍を区別して、農民は年金も保健もない。中国は人口の1%が国全体の4割の富を持ち、格差は広がり、国民の権利は保障されていない。
第94回東アジア歴史文化研究会 春慶寺 2013年2月6日
東洋史家・東京外国語大学講師 宮脇淳子氏
1.「中国五千年」も「中国人」も、20世紀に日本に対抗して誕生した言葉である
BC221年 中原を統一した秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の「秦」が、英語のChinaと「支那(しな)」の語源である。
1894~95年の日清戦争に敗れた清は、1896年から留学生を続々と日本に派遣した。清国留学生も初めは自分たちの国土を支那と呼んだ。ところが「支」も「那」もよい意味ではないので、「中国」と言い換えるようになり、辛亥革命のとき、革命派が「黄帝(こうてい)即位紀元4609年」としたのが「中国五千年」の出所である。これは「神武天皇即位以来の神国日本」の倍は古いという主張で、「黄帝の子孫の中華民族」は、「天照大神の子孫の大和民族」に対抗して創った概念である。
2.日本は明治維新で国民国家化に踏み切ったが、清朝と朝鮮は遅れた
国民国家(nation state)とは、国境に囲まれた国土の中に住む人々が、同じ言葉や同じ歴史や同じ文化を持ち、国民として平等の権利を有するという思想で、18世紀末のアメリカ独立とフランス革命で誕生した。日本は、1868年の明治維新以来、西欧列強の植民地にならないため、国民が一丸となって努力し、それまでの中国文明に由来する一切の制度を放棄して、西欧・北米の制度に全面的に切り替えた。清朝はもともと五種族の連合帝国であるし、朝鮮は階級差が激しく、日本のようにはまとまらなかった。日本ほど、この理想にあてはまる国家は、世界上に存在しない。
3.清朝(1636-1912)は、五大種族の同君連合帝国

4.日清戦争の原因は、フランスにベトナムを取られた清が、朝鮮を併合しようとしたから
1853年 アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが黒船四隻を率いて日本の浦賀に来航する。
1854年 日本はアメリカの軍事的圧迫に屈服して開国、日米和親条約を結ぶ(不平等条約)。
1868年 明治維新
1871年 日清修好条規調印。7世紀末日本国が誕生してから初めて中国大陸の政権と正式な条約。
1876年 日本が日鮮修好条規(江華島条約)を朝鮮と結び、清の宗主権を否定する。
1884年 ベトナムの保護権をめぐって、清国とフランスの間に清仏戦争が起こる。
1885年 前年フランス艦隊が台湾を封鎖したため、清国があわてて台湾省を設置、朝貢関係のあった朝鮮に宗主権を行使したので、朝鮮の急進改革派は日本に頼って独立を求めた。
1894年 日清戦争始まる。日清両軍が朝鮮で開戦、黄海の海戦で清の北洋艦隊が全滅。
5.中国の近現代史は、1840年のアヘン戦争ではなく、日清戦争に敗れたときに始まる
1840年のアヘン戦争でイギリスに負けて、中国の半植民地化と屈辱の近代が始まる、という歴史は、1937年の支那事変のあと、中国共産党の正統性を証明するために毛沢東が創り出した。日清戦争の敗戦によって本格的な近代化が始まったと正直に言うと、日本の存在を認めることになるからである。実際には、清朝はアヘン戦争のあとも英国を「英夷」と呼んでいるし、国民意識もまだ生まれていない。1895年日清戦争に敗れた清は、下関講和条約で朝鮮の独立の確認、日本に遼東半島と台湾を割譲した。しかし、露独仏の三国干渉で遼東半島は清に還付、その報酬としてロシアは旅順・大連、ドイツは膠州(こうしゅう)湾、フランスが広州湾、英国も威(い)海(かい)衛(えい)・九(きゅう)龍(りゅう)半島を租借、列強による植民地化が一挙に進むのである。1905年には科挙(かきょ)を廃止し、留学生を官吏に登用。
6.朝鮮の支配層はロシアを頼り、朝鮮王が韓国皇帝を名乗る
李氏朝鮮時代の500年間、朝鮮半島は、一割にも満たない両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が、中人・常民・・を支配していた。階層の移動はなく、とには人権はなかった。13~14世紀のモンゴル支配時代にはいた羊もいなくなり、木を丸める技術がなくなったので、樽も車もなく、染料を買う金がないので白い服しか着なかった。下層階級は日本のような四民平等の近代化に憧れたが、貴族は特権維持のため、最初は清朝に頼り、日清戦争で日本が勝利した後は、三国干渉を見た朝鮮の閔(びん)妃(ひ)一族がロシアと結んだので、1895年三浦梧楼(ごろう)公使が、閔妃を殺害した(現在では三浦梧楼暗殺説が疑問視されている)。
1896年 ロシアは、朝鮮王高宗をロシア公使館に移し、親日的改革派を殺害させた。
1897年 ロシア公使館から王宮に戻った朝鮮王高宗が、国号を韓と改め皇帝を名乗る(韓国皇帝)。
朝鮮はつねに中国皇帝を宗主と仰ぎ、一段格下の王号しか持たなかったが、日清戦争で日本が勝利したので、歴史上初めて皇帝を名乗った。韓国は、今でも日本天皇を「日王」「倭王」と呼ぶ。
7.ロシアの満洲支配と日露戦争

1896年 ロシアが満洲里(まんしゅうり)から沿海州にいたる東清鉄道敷設権を獲得(賄賂300万ルーブル)。
1898年 ロシアがハルビンから旅順、大連に至る南部支線の敷設権と関東州の租借権を得る。
1900年 義和団事件に乗じて、ロシアが満洲を占領する。
1902年 英国と日本が日英同盟を結ぶ。
1904年 日露戦争始まる。清朝は局外中立を宣言。
1905年 5月日本海海戦、9月ポーツマスで日露講和条約。日本は韓国の保護権、南樺太、遼東半島、東清鉄道南満洲支線(南満洲鉄道)の経営権、沿海州の漁業権を獲得した。12月満洲に関する日清条約を調印、ロシアから譲渡された権利を清が確認。
1906年 8月遼東半島の租借地に日本が関東都督府を設置、11月満鉄(半官半民会社)誕生。
1907年 清朝が東三省を設置する。四回にわたる日露協約の秘密条項で、北満洲はロシア、南満洲は日本の特別利益地域に分割。1910年日本韓国併合。
8.1911年の辛亥革命は新軍のクーデター、1912年に清朝皇帝は平和裏に退位した
下の地図の太線で囲んだ中の白い部分が、現在の中華人民共和国の領土である。極太線が1911年10月の辛亥革命で清朝からの独立を宣言した14省、当時の清朝領土の三分の一ほどだった。
1911年10月 日本の陸軍士官学校に留学した将校たちが清朝に反乱=辛亥革命(武昌起(ぶしょうき)義(ぎ))。
12月、17省の代表の選挙で臨時大総統に孫(そん)文(ぶん)が選ばれ、1912年1月1日中華民国臨時政府が樹立、清朝は北洋軍閥袁世凱(えんせいがい)を総理大臣に任命し、革命派を討伐させるが、孫文は清帝を退位させたら大総統の位を袁世凱に譲ると密約したので、袁世凱は6歳の宣(せん)統(とう)帝(てい)溥儀(ふぎ)と父の摂政を説得、2月12日、溥儀は生涯紫禁(しきん)城(じょう)で生活し歳費を支給されるという条件で退位し、清朝が崩壊した。

9.中華民国(1912~)は国民国家とは言えないし、統一もされていなかった
1912年、清朝と中華民国が対立して南北戦争になるのを阻止したのは袁世凱である。彼は日英仏独露との間に五国借款を成立させて正式の大総統に就任したが、世襲大総統から皇帝になったのを部下に反対され、1916年に病死、中国は軍閥闘争で四分五裂する。1924年、軍閥の馮(ふう)玉(ぎょく)祥(しょう)に退位の際の優待条件を反古にされて紫禁城から追い出された溥儀は、日本租界に逃げ込み、その後、1931年の満洲事変で1932年に成立した満洲国の摂政となり、1934年に皇帝となる。
10.ロシア革命(1917)とコミンテルン(1919)が、中国の反日ナショナリズムを生む
1917年 ロシア革命、ロシアは日露戦争後に日本と結んだ密約を公表し、中国の反日を煽る。
1919年3月世界同時革命を目指すコミンテルン結成。五・四運動が中国最初のナショナリズム。1915年の21箇条要求は、日露戦争後に日本が清と結んだ条約を中華民国に再確認させるものだったが、五・四運動はこれに非難の矛先を向けた。これから日本と中国の関係は180度変わる。日清戦争以来、日本をモデルに近代化に励んできた中国人は、このとき孔子を初め自分たちの過去の文明を一切否定すると同時に、それまで中国の近代化に日本が果たした役割も完全に否定した。
11.ソ連成立(1922)と、中国で国民党と共産党の合作(1924)
広東省の客家(はっか)出身の孫文は、14歳で兄に呼ばれてハワイの教会学校に入ったのが教育の始まり。伝統的な漢文を学ぶ「読書人」ではなく、新思想にかぶれた「文化人」。18歳で香港で洗礼を受けて医学を学び、英国の医師免状を受けた華僑である。彼は日本人の援助で革命を行ったが、すべて失敗、日本人の援助が得られなくなったので、思想的には異なるソ連の工作を受諾した。
1924年 第一次国共合作「連(れん)俄(が)(ソ連と提携)・容共(ようきょう)(共産党員の加入)・扶助農工」。
1925年 孫文が北京で病死したあと、1926年に蒋介石率いる10万の国民党軍が北伐を開始する。1927年 上海で英米仏日軍が北伐軍と対峙、蒋介石のクーデターで国共合作が破綻する。
12.張学良のナショナリズムと排日運動、満洲事変(1931)から満洲国建国(1932)
1928年の張作霖の爆死後、満洲の実権をにぎった張学良は、いまや中華民国となった土地から日本人を追い出すため、激しい排日運動を展開した。日本が認められていた土地商租権を、中国侵略の手段であり領土主権の侵害であるとして「懲(ちょう)弁(ばん)国賊条例」を適用、1929年には「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」など60におよぶ法令を発して、土地・家屋の商租禁止と、以前に貸借した土地・家屋の回収をはかった。最も被害を受けたのは日本人として入植した朝鮮人で、日本の投資に対する保証や見返りなど考えず、ここは中国なのだからすべて置いて出て行けと言うばかり、現地居留日本人の危機感はつのり、窮状を打破するには武力による解決もやむなしと考えるに至った。
13.日本は国民国家であるが、中国は国民国家になれない
現代中国は、じつは日本をみならって近代化を始めたため、日本型国民国家を目指しているが、歴史的背景と国土の違いから絶対不可能である。共産党政府は少数民族の土地を奪って、その言語と文化を抑圧する植民地政策を取り、農村籍と都市籍を区別して、農民は年金も保健もない。中国は人口の1%が国全体の4割の富を持ち、格差は広がり、国民の権利は保障されていない。
中国も韓国も北朝鮮のひょっとしたら、本意でないけれども、極端な扇動で日本を悪くいわなければ、国のアイデンティティがもてない自己矛盾に陥っているようです。
中国も韓国も北朝鮮も、愛国心を煽り、反日を国是のように叫んでいますが、それは本意ではないことは当人が一番よく知っているのではないかと思います。
反日を叫べば叫ぶほど、自らの首を絞めつけているような現実です。それは双方にとってたいへん不幸なことであり、愚かなことですが、振り上げた拳をどのように収めたらよいのか、彼ら自身もわからないのではないかと思います。
花田