歴声庵

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甲斐:能見城址その2(堂ヶ坂砦、御名方神社周辺の土塁等)

2012年01月29日 20時26分54秒 | 登城記・史跡訪問

 先日登城した能見城址の周辺には、複数の土塁群が現存しているらしいので訪れてみました。そんな訳で能見城址とのタイトルを付けてはいますが、今回は能見城址その物の画像はありません。


 まずは堂ヶ坂砦跡。堂ヶ坂砦は能見城のすぐ近くの北東に位置しています。新府城址と能見城址が建つ七里岩台地は、南北に長く東西に狭い地形をしており、その狭い東西の端は断崖絶壁になっているのが特徴です。しかし現在堂ヶ坂砦跡となっている場所からは、つづら折が崖下まで続いていますが、昔からこのつづら折は存在しており、このつづら折の事を「堂ヶ坂」と呼んでいたのではと推測します。断崖絶壁が続く東側崖の中、唯一七里岩台地の山頂に続く「堂ヶ坂」は戦略上の要所であり、この「堂ヶ坂」を監視する為に築かれたのが堂ヶ坂砦だったのではないでしょうか。また「堂ヶ坂」の監視だけではなく、崖を強行突破しようとする軍勢の監視も可能な堂ヶ坂砦は、七里岩台地東岸の戦略上の要所だったと言えるでしょう。
 また看板越しに望める平野上に、先日訪れた大豆生田砦跡が在り、幾ら大豆生田砦跡が交通の要所でも、軍事的には能見城(堂ヶ坂砦)の方が有利と言うのを実感して頂けると思います。


 また堂ヶ坂砦跡から視線を北にずらせば、七里岩台地越しに天正壬午の乱の際に北条勢の本陣となった若神子城址も望む事が出来ます。このように遺構こそ残っていないものの、堂ヶ坂砦の戦略的価値を実感出来たのは嬉しかったです。


 2012年05月31日に再訪問、七里岩台地の麓から堂ヶ坂砦跡を見上げて。台地上木々の中央部のくぼみが堂ヶ坂砦跡です。画像では判り難いですが、麓からくぼみまで登るつづら折が見えます。

 大雑把に言って、そんな堂ヶ坂砦と能見城址の中間に御名方神社は位置しています(厳密に言うと、御名方神社は他の二箇所より若干北に位置していますので、三箇所で三角形を描いていると言う方が正確かも)。微高地に建つ御名方神社の麓には、素人の私が見てもすぐ判るくらいの土塁の遺構が現存しており、見た時は興奮しました。


 御名方神社麓のV字型の空掘跡

 
 空堀跡を逆方向から。


 御名方神社山頂付近の土塁跡。

 堂ヶ坂砦も御名方神社も能見城の東方に位置していますが、西方にも土塁跡とも見えるような地形が見られます。能見城は七里岩台地東側の崖付近に位置しますが、これらの地形が土塁跡なら、能見城の周辺には土塁群があったことにより、信濃・若神子方面から七里岩台地上を新府城を目指して進軍する軍勢を、この能見城を中核とした防衛ラインで阻む意思で築かれたのではないかと推測していました。ただし大山師匠より、能見城東側の地形は土塁とは断言出来ない(堀が無いので、単なる防風林だった可能性もある)のと、戦国時代には現代のように戦線を構築すると言う概念が無いと言う指摘をして頂いたので、この能見城を中心とした防衛ラインと言う私の考えは先走りし過ぎでした(汗)

 
 能見城の東西、現穴山駅周辺には土塁跡と思えるかもしれない地形が複数存在しますが、堀が無く単に盛り土だけなので、単なる防風林だった可能性も指摘されています。

 穴山駅周辺の地形は土塁跡とは断言出来ませんが、御名方神社周辺の地形は土塁跡と断言して良いかと思います。ですので少なくとも能見城の東側には土塁群が存在しており、能見城と組み合わせた防衛体制が整っていたのは間違いないと思います。しかしこの能見城を中心とした土塁群が武田氏によって築かれたのか、天正壬午の乱の際に徳川勢が築いたのかがハッキリしないのですよね・・・。
 ただ天正壬午の乱の際は、能見城~御名方神社~堂ヶ坂砦に布陣する徳川勢の方が、若神子城~大豆生田砦に布陣する北条勢の侵攻を防いでいますので、この新府城を含めた能見城~御名方神社~堂ヶ坂砦の七里岩台地上の城塁群を活用したのは徳川家康だったと言うのは間違いないと思います。
 能見城址に関しては、まだ訪れていない能見城址北側麓にも遺構が残っているらしいので、また訪れたいとも思っています。

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