歴声庵

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米沢藩の戊辰戦争における参戦理由 その4

2011年05月07日 18時51分49秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

一年ぶり以上の更新になりましたが、箇条書きの形で私なりにまとめた米沢藩の参戦過程を書いてみました。清書は自サイトの方で公開させて頂きますので、今回は備忘録代わりとご理解下さい。文末の( )内は、その根拠となる史料です。

 奥羽鎮撫総督府が仙台藩に訪れるまでの経緯は飛ばします。
 ①奥羽鎮撫総督府から会津征討の命が下る(御年譜・戊辰紀事、他多数)
 ②会津藩に同情的な藩論から会津救済の周旋活動行う(御年譜・戊辰紀事、他多数)
 ③しかし総督府参謀世良修蔵に悉く建白を却下される(御年譜・戊辰紀事、他多数)
 ④この時点で、消極的とは言え新政府との交戦を覚悟するようになる(戊辰紀事・木滑要人日記)
 ⑤閏四月十八日、広沢真臣の言質を得た宮島誠一郎が京から帰国。宮島の報告を受けて、一時的に米沢藩が和平路線に戻る?(宮島誠一郎日記)
 ⑥米沢藩政府宮島を白石に派遣して、新政府軍との開戦を踏み止ませようとする(宮島誠一郎日記)
 ⑦宮島白石に到着する、しかし時既に遅し、仙台藩が暴走して世良を謀殺(史料多数)
 ⑧なし崩し的に対新政府軍への軍事同盟となる奥羽列藩同盟が発足。米沢藩は越後と出羽方面の担当になる(戊辰紀事・会津戊辰戦史・奥羽越列藩同盟の基礎的研究、他多数)
 ⑨閏四月二十九日、家老竹俣久綱、軍務総督千坂高雅が不在時にも関わらず、越後出兵が決定される。会議参加者は色部久長・甘粕継成・若林秀秋・斉藤篤信・中条明資・小林五兵衛。この内甘粕・斉藤・中条が主戦派と推測(甘粕備後継成遺文・史談会速記録の千坂高雅の口述筆記)
 ⑩五月一日、中条明資大隊が越後に向け出陣。ただしこの時点での任務は越後鎮撫と藩境防衛(甘粕備後継成遺文)
 ⑪越後内の諸藩が列藩同盟に参加したのを受けて、中条大隊越後に進入。そのままどんどん中越地方に進軍する(中条が主戦派だからでは?)。五月十三日色部率いる本隊も出陣(恐らく中条や甘粕等主戦派のお目付け役として)(甘粕備後継成遺文・越後戦争日記、他多数)
 ⑫五月二十一日、津宿にて主戦派の甘粕・大井田修平等、非戦派の色部・若林・小林等の意見が激突。激論の末、甘粕達の主張が通り、越後派遣軍は新政府軍と交戦するのが決定(甘粕備後継成遺文)
 ⑬五月二十二日、加茂宿にて同盟軍の軍議が行われ、甘粕が米沢藩代表として参加。そして二十四日から同盟軍と新政府軍の戦いが繰り広げられる事になる(史料多数)

 上記の流れとと推測します。基本的な流れは今までと同じですが、甘粕が単独で決めたと言うより、斉藤篤信など主戦派の同志も多く、何より米沢藩の世論が会津に同情的で新政府軍との交戦を欲していたのが、甘粕・斉藤等の主戦派の意見を後押ししたと言う感じだと思います。
 とは言え、藩首脳部が危険な新政府軍との交戦を認めたのが納得出来ないと思う方が多いかと思います。何故、藩首脳部が甘粕・斉藤等主戦派の暴走を追認したかを示す明確な史料はまだ見ていませんが、和平派と言ってもやはり米沢藩の人間にとっては「かつての故郷である越後の地を回復出来る」と言うのは、何物にも変えれない想いだったのではないでしょうか。
 上記のとおり、今回はあくまで備忘録代わりの箇条書きで、清書はサイト上で公開させて頂きたいと思います。


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