歴声庵

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右松十郎太について②

2013年09月07日 21時02分00秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 先日話題にした薩摩藩士右松十郎太についてですが、ツイッターにてマンチカン 帝國様から『西南の役薩軍口供書』に、右松の証言が掲載されていると教えて頂いたので早速入手しました。西南戦争での薩軍の記録で右松の名は見た事がなかったので、どこに参加していたのかと思ったら、実戦部隊では無く、県令大山綱良の指示で後方勤務で参加した模様です。尚、右松は元々県の職員だったらしく、ここから維新後の右松が軍人の道は歩まなかった事が察せられます。薩軍に対しての協力では、もっぱら補充兵の徴募の任に当たったらしく、中々の辣腕を振るったみたいですね。戊辰北越戦争 羽越国境の戦いの際にも、高鍋藩兵や村上藩兵の記録を読む限り、右松は各藩兵の移動や意思疎通に携や連絡に携わっていたのが書かれているので、元々後方勤務に優れた手腕を持っていた人物だったのかもしれません。
 ところで個人的に、今回『西南の役薩軍口供書』を読んで印象的だったのは右松の年齢です。右松の口供書を信じれば、西南戦争当時の右松の年齢は二十九歳と八ヶ月となっていますので、戊辰戦争の際の右松の年齢は二十歳そこそこになります。そして戊辰戦争時に二十歳そこそことなると、薩摩藩が実戦を経験した薩英戦争と禁門の変の時は十代半ばとなりますので、この両戦争に参加した経験があったとしても、幾ら右松が禄高100石の中級藩士の身分だったとしても、十代半ばでは士官に抜擢されたとは思えないので、右松が戊辰戦争までに士官としての実戦経験があったとは思えません。また鳥羽伏見の戦いの記録でも、右松の名は見た事がないので(これは私が勉強不足だからかもしれませんが)、右松が北越戦争まで士官としての実戦経験を積んでいた可能性は少ないと思っています。
 しかし、そのような士官経験の無い二十歳そこそこ、しかも西郷隆盛の子飼いとも呼べる精忠組にも参加していない右松が、一挙新政府の村上・庄内方面軍の軍監に抜擢されたのは、右松が藩内で高い評価を得ていたからではないでしょうか。或いは久光のラインに繋がった人材だったのでしょうか、この辺は今後の課題にしたいと思います。
 以上の事から、戊辰戦争時に四十歳で、馬関攘夷戦争・幕長戦争・鳥羽伏見と実戦経験の豊富な福田侠平よりも、右松の方が実戦経験が豊富だった可能性は低いと思います。私が主張したいのは村上・庄内方面軍を率いる四人の軍監の中で最も実戦経験が豊富だったのが福田で、故に軍事指導は福田を中心に行われたと言う事で、福田が最高指揮官だったと主張する訳ではありません。あくまで軍議の際に中心人物なったと考えていると思って頂ければ幸いです。
 今後も右松を調べるのは続けたいと思いますが、何はともあれ、これで村上・庄内方面の中心人物が福田だったと言う論調で、羽越国境の戦いの記事を作成していきたいと思います。ただ実際に作成する前には、念の為に残りの二人の軍監の一人だった二見一鴎斎の経歴も調べたいと思います。尊攘派の僧侶と言う事で、単なるアジテーターとの認識をしていますが、念の為に裏付けを取っておきたいなと。
 最後になりますが、今回の件で福田が村上・庄内方面軍の中心人物だった事に自信が出ましたので、貴重な情報を教えて頂きましたマンチカン 帝國様には、改めて感謝させて頂きたいと思います。


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