笹尾城址入り口に建つ解説版。
甲斐笹尾城(塁)は、新府城や若神子城が築かれたのと同じ七里岩台地上に位置します。七里岩台地の北端に近い、南側の釜無川に突き出た、いわゆる舌状台地部に、武田氏により対諏訪氏向けに築かれたと伝えられます。
笹尾城址は一の郭から六の郭で構成されたと伝えられますが、現在整備化されているのは一の郭と二の郭のみ。三の郭は駐車場にされ、四の郭から六の郭までは宅地化や雑木林とされています。探せば四の郭跡から六の郭跡にも遺構が残っているかもしれませんが、今回は整備されている一の郭跡と二の郭跡のみを訪問しました。
笹尾城址に訪問した日は雨が降っていた為、ガスにより笹尾城址より眼下が見えず、折角の笹尾城址の地理的重要性が分り難かったので、再度訪問してからアップしようと思っていました。しかし半年経っても未だに訪問出来なかったので、とりあえず半年前に撮影した画像のみで記事をアップさせて頂きました。
笹尾城址から見下ろして、天気が良ければ対岸に南アルプスも望めるのですが、ガスにより麓すら見えません。
同じく笹尾城址から見下ろして。断崖絶壁上に築かれているのが実感出来ると思います。
駐車場化され削平された三の郭跡から、四の郭跡を望んで。
三の郭~二の郭間の空堀跡。
二の郭跡に残る空堀跡。雪が残っているおかげで、地面に凹凸があるのが確認出来ます。
二の郭跡の土塁跡。
土塁跡。
切り通し跡。
武田信玄が甲斐を平定し、信濃への侵攻を始めると、しばらくの間は笹尾城は歴史の表舞台から姿を消します。しかし武田氏が織田氏に滅ぼされ、その織田信長も明智光秀に討たれて、甲斐への織田政権の支配権が揺らぐと、笹尾城は再び歴史の表舞台に現れます。
武蔵・上野の国境である神流川で、織田氏の重臣である滝川一益を撃破した相模の北条氏直は、上野を占領後、そのまま余勢を駆って信濃に侵攻しました。一方越後の上杉景勝も、信長の横死を知ると信濃に侵攻を開始します。上杉勢と北条勢は信濃川中島で対陣するものの、川中島で両軍が対陣する間に、駿河の徳川家康が甲斐に侵攻を開始します。家康の甲斐侵攻を知った氏直は、慌てて川中島から撤収、そのまま南下して甲斐に侵入し、自らは七里岩台地上の若神子城に本陣を置きます。甲斐侵攻後氏直は甲斐北部の諸城を改築して、自軍を入城させますが、平山優氏著の『天正壬午の乱』によれば、その際に笹尾城も後北条勢に接収され、拠点の一つとなったと言います。
土塁跡
一の郭跡と土塁跡。
一の郭跡。
天正壬午の乱後、甲斐は正式に徳川氏の所領となりますが、笹尾城址は徳川氏の支配では使われる事は無く、そのまま廃城になったと思われます。
訪問日:2014年03月18日