歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

甲斐:笹尾城(塁)址

2014年09月23日 17時24分58秒 | 登城記・史跡訪問


 笹尾城址入り口に建つ解説版。

 甲斐笹尾城(塁)は、新府城若神子城が築かれたのと同じ七里岩台地上に位置します。七里岩台地の北端に近い、南側の釜無川に突き出た、いわゆる舌状台地部に、武田氏により対諏訪氏向けに築かれたと伝えられます。
 笹尾城址は一の郭から六の郭で構成されたと伝えられますが、現在整備化されているのは一の郭と二の郭のみ。三の郭は駐車場にされ、四の郭から六の郭までは宅地化や雑木林とされています。探せば四の郭跡から六の郭跡にも遺構が残っているかもしれませんが、今回は整備されている一の郭跡と二の郭跡のみを訪問しました。
 笹尾城址に訪問した日は雨が降っていた為、ガスにより笹尾城址より眼下が見えず、折角の笹尾城址の地理的重要性が分り難かったので、再度訪問してからアップしようと思っていました。しかし半年経っても未だに訪問出来なかったので、とりあえず半年前に撮影した画像のみで記事をアップさせて頂きました。


 笹尾城址から見下ろして、天気が良ければ対岸に南アルプスも望めるのですが、ガスにより麓すら見えません。


 同じく笹尾城址から見下ろして。断崖絶壁上に築かれているのが実感出来ると思います。


 駐車場化され削平された三の郭跡から、四の郭跡を望んで。


 三の郭~二の郭間の空堀跡。


 二の郭跡に残る空堀跡。雪が残っているおかげで、地面に凹凸があるのが確認出来ます。


 二の郭跡の土塁跡。


 土塁跡。


 切り通し跡。

 武田信玄が甲斐を平定し、信濃への侵攻を始めると、しばらくの間は笹尾城は歴史の表舞台から姿を消します。しかし武田氏が織田氏に滅ぼされ、その織田信長も明智光秀に討たれて、甲斐への織田政権の支配権が揺らぐと、笹尾城は再び歴史の表舞台に現れます。
 武蔵・上野の国境である神流川で、織田氏の重臣である滝川一益を撃破した相模の北条氏直は、上野を占領後、そのまま余勢を駆って信濃に侵攻しました。一方越後の上杉景勝も、信長の横死を知ると信濃に侵攻を開始します。上杉勢と北条勢は信濃川中島で対陣するものの、川中島で両軍が対陣する間に、駿河の徳川家康が甲斐に侵攻を開始します。家康の甲斐侵攻を知った氏直は、慌てて川中島から撤収、そのまま南下して甲斐に侵入し、自らは七里岩台地上の若神子城に本陣を置きます。甲斐侵攻後氏直は甲斐北部の諸城を改築して、自軍を入城させますが、平山優氏著の『天正壬午の乱』によれば、その際に笹尾城も後北条勢に接収され、拠点の一つとなったと言います。


 土塁跡


 一の郭跡と土塁跡。


 一の郭跡。

 天正壬午の乱後、甲斐は正式に徳川氏の所領となりますが、笹尾城址は徳川氏の支配では使われる事は無く、そのまま廃城になったと思われます。

 訪問日:2014年03月18日


9月22日(月)のつぶやき

2014年09月23日 01時01分24秒 | twitterまとめ

薩摩の合伝流兵学は江戸後期に徳田邑興が"中興"したとされるが、実際には新たに創始されたものと思われる。系譜には真田幸村や大石内蔵助などの著名人が名を連ねるが、捏造だろう。

大塚@歴声庵さんがリツイート | RT

@jyagamai いよいよ今週末に第四回更新ですか、待ち遠しかったので本当に嬉しいです(^^)。イラストの方も楽しみにさせて頂きますね、早く金曜日にならないかな~。


『豊国戦記』に長州藩兵の陣地構築についての詳しい記述がありました。このような幕長戦争・戊辰戦争時の陣地構築についての詳しい記述は、あまり見かけないので、全文引用させて頂きます。


「其の台場の築城法は、他に異なり、高さ八尺或いは一丈に築き立て、前面は三尺竹を次で落とし、内部を二段に造り、兵士は此の土壇段に身を隠して行通自在なり。


また二ツ池の堤と、九郎原の南に、大木を積立て、関門を構え堀を穿ち、水を湛え、穴を掘りては落とし穴を設け、足立山の半腹には、大砲を掛け並べ、野戦砲、籠筒の類を以て、防戦の補けとし、湯川には山内梅三郎、葛原には高田梅三郎ありて、猟人互ひに連絡を保ち、緩急相応するの警備怠りなし」


これを読むと、長州藩兵が築いた陣地は、塹壕内を兵士が移動する事が出来た大規模な物だったみたいですね。恐らく幕長戦争から二年後の戊辰戦争も同様の陣地だったと思われますが、北越戦争で米沢藩兵が「流石は西洋仕込みの陣地は違う」と評した、新政府軍の陣地はこのような物だったのでしょうか?。


ブログ更新。興国寺城と曾根下野守の講演を拝聴 blog.goo.ne.jp/naishi_masahik…

大塚@歴声庵さんがリツイート | RT

曽根昌世って、徳川家家臣として生涯を終えたとずっと思っていたので、徳川家を追放されたと聞いて驚きました。>RT