新府城址遠景
新府城と言えば、武田勝頼が織田信長の侵攻に備えて築いた城であり、韮崎地方の七里岩台地南部の西岸側の小山に築城されています。新府城の縄張りについては真田昌幸が手掛けたと一般的には言われていますが、平山優著『真田三代』には「新府城の普請奉行が真田昌幸であったとされ、その縄張りも昌幸の手になるものと言われている。しかしそのような史料はまったく存在せず、根拠が明らかででない。実は、新府城に真田昌幸が深く関与したという説は戦後唱えられ始めたものであり、しかもその根拠はどうやら右に掲げた真田昌幸書状による人夫動員令の通達であるらしい」と記述されています。
東出構跡と東堀跡
中堀跡と土塁
西出構付近の土塁と水堀(冬の為、凍っています)
新府城北部に位置する井戸跡
二の丸付近
織田信長の侵攻に備えて築かれた新府城だったものの、天正十年(1582年)にいざ織田勢の武田領侵攻が始まると、信濃諸城の自落と、鳥居峠の敗戦を受けて家臣の逃亡が相次ぎ、折角築いた新府城に篭る事が出来ずに、新府城に火を放って逃亡します。
このように本来の目的を果たさずに一旦廃城となった新府城ですけれども、武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏に代わって甲斐の支配者となった信長が本能寺の変で横死すると、再び歴史の表舞台に表れます。
信長から甲斐一国を与えられた河尻秀隆は、他の旧武田領を与えられた滝川一益や森長可が旧武田領から脱出する中、一人甲斐に留まっていました。しかし織田家の圧制や武田残党狩りを恨む一揆勢に、躑躅ヶ崎館近くの住居を襲撃され惨殺され、その住居に逆さ磔の状態で埋められたと伝えられます。この河尻が埋められた場所は、現在河尻塚と呼ばれています。
このように本能寺の変後に旧武田領が混乱する中、相模の北条氏直は上野から信濃に入り、信濃から甲斐に向け侵攻を開始します。これに対して駿河の徳川家康は穴山衆を先頭にして甲斐に侵攻します。北条氏直が若神子城に本陣を置いたのに対して、徳川家康が本陣を置いたのが新府城であり、皮肉に信長の盟友である家康が新府城を活用する事になります。
余談ながら、この甲斐・信濃・上野の旧武田領を巡る徳川家康・北条氏直、そして越後の上杉景勝の三氏による三つ巴の戦いを天正壬午の乱と呼びます。
二の丸から見た釜無川西岸地方。
新府城の西側は七里岩台地の断崖絶壁であり、この方面から新府城を攻めるのは事実上不可能でした。
大手道
南大手門付近の虎口
南大手門下の三日月堀跡
新府城本丸から北方の能見城址を見て(中央左の小山が能見城址)
新府城が建つ同じ七里岩台地の北方2キロ付近に能見城は位置しています。能見城自体は穴山氏の城として、新府城よりも古くから存在していたと言われていますが、現在能見城址の周辺には東西に多数の砦跡や土塁跡が現存しています。この土塁群は能見城址を中心に七里岩台地を東西に横断するように築かれいると思われます。南北に長く東西は狭い、かつ狭い東西は断崖絶壁の七里岩台地上に築かれた新府城を信濃・若神子方面から攻めるには、この能見城を中心とした防衛ラインを突破するしかなく、この新府城と能見城、そして能見城周辺の土塁群は一体化した優れた軍事拠点だったのではないかと思っています。
実際天正壬午の乱では徳川家康は、北条氏直と比べて圧倒的に兵力不足だったのにも関わらず、膠着状態に持ち込めたのは、この新府城・能見城、能見城周辺の土塁群の防御力の高さも大きかったのではないでしょうか。
今後もこの天正壬午の乱で使われた城址・砦跡訪問は続けていきたいと思っています。 訪問日:2012年01月17日、同年1月26日
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