こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

どんどん幼稚化するこの国の未来はどうなるのだろう

2017年08月17日 | 日本のこと、世界のこと

「それ、失くしちゃいました。ごめんなさい」

”ごめんで済むなら警察いらない”というのは子供の喧嘩でよく出るフレーズだけど、この言葉を使うのは、子供だけではないかもしれないと思うようになってきた。いや、子供の方が裏表がないだけいいのかもしれない。

医師法では、カルテの保存期間は5年と定められている。いい加減なカルテしか書かない医者も中にはいるが、少なくともその5年間は病名と治療歴程度は記録が残っている。もちろん、何かあった時の証拠というよりは、きちんとしたカルテを残して、それぞれの患者さんの一生分のケア、さらにはデータを集積することで医学の役立てることが本来の目的なので5年といわず、ずっと残して然るべきものだ。電子化してどこの医療機関でも共有することができるようになるのが最終目標だが、残念ながらそうはなっていない。

私が日々書いている、病理診断報告書も2、3年は保管されることになっている。病理学的判断は医行為で”診断”なので、療養の担当に関する帳簿、書類その他の記録として3年は保管されるべきかと思うが、”検査”とされると2年になる(この辺のことは、また別の機会に)。それ以外でも、とにかく医行為に関することは年単位での保管が求められている。だから、某省のように、誤って廃棄した、などということはあってはならない。

たとえば、2年ぶりに医者にかかった時、「あなた、前は何の病気でしたっけ?以前の診療記録は捨ててしまってもうありません」といわれたらどうだろう。その医者のことを許すことができるだろうか。全てを1からやり直さなくてはならない。それに、前の病気が癌だったとすれば、今回の病気が”その時の癌”によるものなのか、”新たに出現した癌”なのか、癌とは関係のない全く別の病気なのか、比較し検討することができなくなる。そんな医者に誰が命を預ける気になるだろうか?

ところがこの国のお役所というところは、大事な書類をどんどん捨てていいらしい。らしい、というのはお役人が"誤って廃棄した"と言っているからで、誤ってなのか、わざとなのか、本当は捨ててないのか、食べちゃったのかはわからない。

”誰それが誰とどこで会った”、”そこではこんな話がなされた”、そういったメモ書きがどんどん失われているようだ。医者のように、診療録などの保管が前提であることを求められる職業をしている人間からみると、役人とか政治家は証拠を残さないようにしているかのようにみえる。国家機密に属するもの、というのがどういうレベルの情報を指すのかはわからないが、私からみると国家機密というのは人の命に関わるものに限られ、それ以外は、公開すべきものではないか?

利権が絡むから、非公開となり、訳のわからないことが起こってくる。そして、”人の命に関わるもの”というものの多くは防衛関連のことで、そういったことに関する文書がどんどん捨てられているということは、何とも由々しき問題だ。命を賭けてその業務に従事している人は少なくないのだ。それを「仕方ない」で済ませていたら、いけないのだ。国民の無関心が先の大戦を引き起こした原因の一つであると考える必要がある。

 一体、誰が誰のために何を考えてこの国を動かしているのか、そう考えると多くの人が自分のために自分のことばかりを考えて行動しているように思えてくる。そういったことが日々報道され、役人とか政治家の発する民度の低下が伝染し、国中が幼稚化していくような気がしてしまう。特権階級の人たちは臭いものに蓋をしていればそのうちうやむやになってなんとかなると考えているようだけど、残念ながらネット上にはなんでも残ってしまう。嘘つきでいい加減な大人ばかりみていたら、若い人もそれが当たり前と思うようになる。このままでは、この国はどんどん沈んでいくのではないかと思え、このところ暗澹たる気持ちとなってしまうことが多い。

プライドを持って生きることはできないのか

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