病理学会は明日まであるけれど、さすがに3日も病院をあけるわけにはいかない。今夜には東京に帰って、明日は仕事。夜には研究の会議もある。
昨日、今日と二日しか出られなかったけど、得るものは多かった。もちろん、自分の仕事なのだから病理のことはまじめに考えている。医学の進歩は急激で、もう病理だ臨床だといっているような場合ではないかもしれない。
もちろん病理解剖について、考えることがたくさんあった。言うまでもないが、病理解剖というのは医者なら誰でもできるということではなくて、死体解剖資格という資格が必要で、医者になったあとしかるべき施設で指導を受けたのちにとることのできる資格だ。元病理医とか、病理学教室で一時期勉強していたことのある医師とかそう言った人を除くと、この資格を持っている人のほとんどが病理医だ。だから、このことについて、話すことができるのは病理医同士となる。そして、そのことについて、病理医仲間ともたくさん話すことができた。多くの病理医が病理解剖について、それぞれ真剣に取り組み、それぞれ真剣に悩んでいた。一言で片付けるならば、答えがないということ。それでも、意義を見いだし、人類の幸福にフィードバックしなくてはならない。
病理解剖を通して、技術、診断、研究、発表、様々なことをしなくてはいけない。それが医師としての病理医の責務だ。お金にならないからどうの、などという必要はない。病理解剖ができる病院というのはそれだけでランクが上であり、積極的に行う病院というのはすなわちアカデミックであるということだ。病理医は、その病院のみならず、日本の医療のアカデミズムのゲートキーパーとしてしっかりした仕事、すなわち病理解剖を行わなくてはならない。
このシリーズを書き出してから、ひと月以上たった。少々間延びしてしまった。病理解剖について考えてみようと思ったのは、自分の仕事に疑問や不満を持った訳ではない。ただ、せっかく行った仕事が徒労に終わらないよう、有意義なものとなるようにしたい、と考えただけだ。もし一つだけ言えることがあるとすれば、今の上司の仕事をみてのこと言えるかもしれない。
10回と決めて書き始め、まさか終わり(10/10)が病理学会の期間に重なるとは思ってもみなかった。病理学の神様がいるとしたら心から感謝したい。
病理解剖について考えるのは、今回これで終わりにしよう。次は、定年になった頃にしてみよう。理由付けをあれこれ考えるよりも、それぞれの症例に対して、真摯な気持ちで取り組むだけの話だ。
今回も宮城観光はできず