太平洋戦争で鎌倉、京都、奈良は文化財保護の観点から米国による空襲を免れた。ウクライナの現状を目の当たりにし、当時の日本が米国のおかげで貴重な多くの文化財を残してもらえることができたのはきわめて恵まれたことだった。これは考えようによっては人の命よりも文化財の方が大切だったともいえて、複雑な気持ちになる。ちなみに今般のロシアによるウクライナ侵攻は一方的な侵略戦争であって、ミサイル攻撃にも屈せずに徹底抗戦しているということは太平洋戦争を起こした日本とは立場が異なるため状況を比較することはできない。
さて、その鎌倉と京都、鎌倉にあって京都にはないものが2つある、それは大仏と海。鎌倉長谷高徳院の大仏は鎌倉時代に造立されたらしいが由来詳細はほとんど不明。ただ、ずっと昔から長谷にあったことは確かで、鎌倉がただの田舎の寂しい漁村だった時期にもそこにあり続けたありがたい仏像だ。東京で育った私でも子供の頃から、この大仏があるということが、鎌倉が古都であることの唯一の証左であると感じていた。ある意味、鎌倉が古都であることを示す、子供でもわかるようなアイコンはほかにはほとんどない。さらには露座の大仏となったことが結果として東大寺の大仏とは違い、鎌倉が武家の古都であることを象徴している。
(こんなに楽しい頃もありました・・・2016年秋)
今回の旅行中タクシーに乗ると、運転手も鎌倉なんぞ田舎の観光地、といった感じでたいていは小馬鹿にされたが、一人だけ
鎌倉には海があっていいですね
と言う人がいた。京都そして大仏はある奈良にも海はない。鎌倉では少し山に登ったら海が見える。海を見たかったら、山の方に登ったらいいのだ。北鎌倉から大仏まで歩く途中でも海が見えるポイントがある(鎌倉ハイキング・・・大仏コース 2012年10月21日)。サーフィン、ヨットといったマリンスポーツを楽しむために鎌倉に引っ越してくる人も多い。そのせいで夏になれば日焼けした人そこいらをうろうろするようになり、そんなところも、野卑といえば野卑だ。これが平安末期ともなれば東国武士など地の果てからやってきた夷人そのものだったのではないか。
久しぶりに京都を巡って文化の違いを実感できた。どうして京都の人(というか洛中の人)というのが排他的であるのか、学生の町として発展したことは街に活気を維持するという点で成功だったこと、鎌倉に花街はなぜないのか、など他にも色々考えたことはあるが、そういったことはどれも多くの人がこれまでに言及していることであり、素人の私がいまさらしたり顔で話すことではない。
この先、京都に住んでみたいとは思えないが、また訪れてはみたい。ただ、それには一週間ぐらい休みが欲しいところで、それは勤め人でいるうちはちょっと難しい。
鎌倉殿はどうなるか