人体解剖という行為そのものの歴史は古く、アリストテレスの頃、すなわち紀元前からおこなわれている。死因を解明するための解剖としての病理解剖はずっと歴史を下って、12世紀頃から、そして病院究明の手段としての病理解剖は16世紀頃からとされている。人の体の仕組みを知ること、人が病を得る理由を知ること、そして病気で死ぬ理由を知ることというのは、死の本態が不明な文明では必要な作業だったし、時代が下ったところで、いまだ死の本態はわかっていない。
今の病理学、とくに外科病理学といわれる病理診断の多くは、放っておけば患者さんに害が生じることが予想されるから手術で切り取って、検査して診断をつけるという作業だ。そして、その病気の治癒にかかわらず患者さんが亡くなったときに、病理解剖を通じて生前の病気がどれほどのウェイトを占めるものだったのかを調べ、今生きている人の治療にフィードバックする、ということだ。人間が、ほかの動物と違うのは、この人の体を調べるために亡くなった人、すなわち遺体を調べようとすることかもしれない。そういう意味では病理解剖は人間の最も特異な行為であり、“診断と治療”が最大の目的である臨床医学とは次元の異なる医学だ。
病理解剖がどのようにして進歩してきたのかは、教科書や論文を読めばわかる。でも、それは科学的な観点からの話であって、人の死、とくに病死ということに対する人類の精神的な進歩というか考え方の変化を説明するものではない。病理解剖の未来といっても、病理解剖の意義を考える以前に、現状では解剖率の世界的な低下が問題となっているようではお話にならない。それでも、病理学に従事する病理医としては、その未来を有意義なものとしていくにはどうすればいいかを、常に考えていく必要がある。
明後日から日本病理学会