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こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

自分を客観的に捉えて生きるには

2023年01月30日 | 生き方について考える
朝の写真が日の出の時間に戻ってきた。
といっても、写真を撮る時間はほぼ同じで、夜明けが少し早まってきたわけで、私が生きて生活している地球と太陽との相対的な位置関係が変化した結果こうなっているというだけの話しだ。

自分のことを客観視するというのは難しい。
それはこうしてあれこれ考えていることからも明らかだ。
考えというのは、肉体が感じる快不快から始まって、頭で考える利益不利益などで、結局のところすべては自分の判断の範囲内。
今、こうして書いていることだって私という人間が思いついたことに過ぎない。

人間の行動はすべて主観的な思いから始まるのに、その結果が思い通りになることは滅多にない。
仮に、短期的な目標を立ててそれを達成したところで、その後アテが外れたなんてこともある。
がっかりしないためには、できる限り客観的に結末を予想しておくといいのだろうが、では、どこまで予想しておけばいいのかなど誰にもわからない。

客観的にみて一番はっきりしているのは、死ぬことだが、残念ながらそれがいつ来るのかよくわからないし、わかった時に自分が何をどう考えるかもわからない。
こうして考えてみると、父の死に様は見事だった。
仕事に打ち込み、多くの人の役に立っていたが、体調を少し崩したのち、最期は生きる気力を失って静かに旅立った。
犬のナイトもコロも、最期は生きようとする気力を失ってやすらかに旅立った。
人生で唯一明らかな結末は死ぬことだ。
自分というものが死にゆく存在であり、生きているのは死ぬためだと常に考えていられるようになれば落ち着いた毎日を送ることができるかもしれない。
生きることは怖いかもしれないが

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どうしたらいつも笑顔でいられるか

2023年01月23日 | 生き方について考える
明日からいよいよ大寒波がやってくるということで、いまからもう緊張している。
寒くなる寒くなると騒ぐほど心臓に毒の様な気がするが、無防備でいる人への警鐘としては必要なことだから仕方ない。
それにしても今朝は風花が舞うような曇り。
昨日のように気温が低くても太陽が出てさえいたら赤外線の効果でポカポカしてくるが、これでは寒いばかりだ。
かさばってしまうが、一番大判のマフラーを首に巻いて出てきた。
ここ数年、毎朝、妻に駅まで送ってもらっている。
車を降りる時に必ず、

(今日も1日)笑顔でね

と背中から声をかけてくれる。
その都度、必ずといっていいほどそのことを忘れている私は、口角を上げて笑顔を作ってみるが、どうもいつも引きつってしまい、駅の方から歩いてくる女子学生たちに訝しがられているのではないかと心配している。
せっかく作ったその笑顔も駅のホームにならぶ頃には消え失せていて、ふと思い出して口角を上げてみる。

世の中には基本的に笑顔の人、というのがいる。
笑いながら歩いている人というのはあまりみないが、話すとすぐに相好を崩す人というのがいる。
私もそんな人を見習いたいと思うが、どうもそれは難しく、いつも仏頂面を下げている。
気に入った人と話したら放っておいても笑顔にもなるが、それは特定の相手とだけで、誰にでもというわけではない。
マナーの悪い人にはムッとした顔を向けて、険悪な空気すら漂ってしまう。
世の中の人みなが、恨みも争いも忘れて笑顔でいたらもう少しマシな社会となるだろうが、なかなかそうはならない。

いっそのこと、朝昼晩に笑顔の時間を作ってみたらどうだろう。
イスラム教では1日5回礼拝するというから、日本でも1日3回笑うことを義務化したらどうだろう。
さすがに笑顔で悪事は働けないだろうから、犯罪も減る。
そんなことを皆にお願いする前に、私自身が1日3回笑ってみようか。
365日、休みなし

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死を受け入れるための一つの方策としてのメメント・モリ

2023年01月17日 | 生き方について考える
平成7(1995)年1月17日に6千人余りの人が亡くなった阪神・淡路大震災が起きてから28年、私はまだ生きている。
自分の意志で生きているのか、それとも神さまに生かされているのかはわからない。
YMOの高橋幸宏さんが70歳で亡くなった、脳腫瘍を患っていたという。
中学〜高校の間、YMOの熱心なファンだった私としてはすくなからず衝撃を受けた。
久しぶりにYMOを聴くと、全く色褪せない曲調に感動すら覚えるが、もうそれを聴くことはできない。
自分の人生の一部が重なる出来事、人物が、死によって過去のものとなっていく。

メメント・モリという言葉を最近よく耳にする。
ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな」「人に訪れる死を忘る事無かれ」というような意味だ。
このことは多くの方がブログで触れているし、私ですらこれまでに何度か書いたことで、死は人類いや、生きとし生けるもの全てに共通した運命だ。

こういった言葉が流行るようになったのは、どこまで行ってもいつまで経っても逃げることのできない新型コロナウイルスのせいなのか、ウクライナでのロシアによる民間人の虐殺を目の当たりにしてのことなのか、それとももっと他のことのせいなのかはわからない。
ただ、死というものが以前よりもぐっと近くなってきたことは間違いなく、より多くの人が”死”を考えるようになったのではないか。

自分が死ぬということを考えるのは辛い。
たとえ五体満足のつもりでも、いつ死が訪れるかなど全くわからないし、それが突然やってくることになったらさぞ慌て、恐れおおのくだろう。
そんな死から逃れることはできないが、死の恐怖から逃れることはできるのではないか。
そんな思いが、死への恐怖をメメント・モリというちょっとオシャレな言葉に置き換えているように思う。
人はなぜ、生きたいと思い、死にたくないと思うのか。

ベランダに集う小鳥やリスたちは、生きることが当たり前で、一生懸命生きているようにみえる。
彼らは自らのというものをどう考えているのだろう。
それより、人に食べられてしまうために生かされている家畜たちにとってのとは何か。
死は全ての生命にとって普遍的であるが、それと同時にそれぞれの個体にとって固有の事象でもある。
生命を共有することはできない。

ところで、私は病理医で、医師としてこれまで数百の死体と向きあってきたはずなのに、生命活動の停止としての死しか考えておらず、死そのものの意味は考えてこなかったような気がするが、いったいなにが死の本質であるのかはよくわからない。

死んだあとのことは考えない

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世界は人間が考えているよりずっと広いのにそれがわからない

2023年01月04日 | 生き方について考える
今朝は2度、ずいぶん冷え込んだ。
ゴミの初日は、剪定材の回収。
剪定材といっても、すべて落ち葉で、庭木の落ち葉以外にも裏山の木の落ち葉も多く、パンパンになった大きなビニール袋2つを集積所まで出しにいった。
外に出ただけで心臓に負担がかかりそうだった。

昨日は、駅伝を見ながら昼過ぎにはブログのエントリーというか、今年の抱負を書き上げ、年賀状も書いて投函した。
娘のフィアンセ君が帰国して、正月疲れとおもてなし疲れがあわせてどっと出たようで妻はほぼ動けず、私もこれといった用もないので、ハンギングやプランターに水やりをしたあとは、今日から仕事に着て行くシャツのアイロンがけをした。
家事のうち、黙々とやるアイロンがけは好きな部類に含まれ、苦にならない。
ちょうどいいことに、WOWOWで博多・天神落語まつりをやっていたので、2時間余りがあっという間に過ぎた。

落語で語られるのは、ほぼすべて人間の営みの描写だ。
賢者と愚者、金持ちと貧者、そしてその他多くの普通の人間。
そんな人たちが時に立場を入れ替え、さまざまな人間模様を繰り広げる。
テレビドラマだとしょっちゅう画面に目をやらなくてはいけないが、落語だったら噺家がそばを食べるところと下げ以外は、無理をしてみていなくてもたいていのところは楽しめる。

そんなわけで落語はアイロンがけにはちょうどいいのだが、ではなんで噺家を見ていなくてもたいがいのことがわかるのだろう。
それは、落語の表している世界が人間同士のやりとりであり、畢竟、人間が考えつくことには限度があるからだ。

善悪愛憎貧富美醜、すべては人間が勝手に決めたことで、人間以外の生物、鳥や獣、魚に木々にそんな価値観など理解できないし、その必要もない。
愛憎は殺し合いに、貧富は分断へ、そして美醜は差別へと、どれも初めはほんの些細な違いに過ぎないのに気がつけば元の場所に戻ることのできないところに来てしまっている。
ほかの生物からしたらはた迷惑な話だ。

人間の価値観に普遍性を持たせることは難しいことかもしれないが、少なくとも世の中におきているあれこれはすべて人間の営みが原因であるということ、そのことを私たちひとりひとりが自覚したら、どれもしょせん大したことではなく、ずっと単純化できることなんじゃないだろうか。
しょせんは仏様の掌の上

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私にとっての結婚の意義と「こどもまんなか社会」

2022年12月12日 | 生き方について考える
昨日の午前中の掃除のせいで、右腕と腰と尻が痛いがおかげでぐっすり眠れた。
夜中起きても、サッカーはやっていないので、ちょっとテレビをつけるというようなこともなかった。
今朝も冬の青空で寒かったが、気合を入れて仕事に出てきた。
掃除をひととおり終え、出し忘れていたお歳暮の手配に横浜まで出た。
デパ地下のレストランで少し遅めの昼食を妻ととりつつ、私たちの来し方行く末について話した。
こういう話になると、たいていは子供たちの話がでる。
息子も娘にしても私から見たら”普通”の人生を歩んでいるので、何か心配があるというわけではないが、それでも話すことはある。
そこから、少子高齢化社会のこと、自分たちの行く末についての話になる。

経済的な担保が将来的にどのぐらい必要かという話になり、子供を持ったことが良かったのかということになる。
若い人が経済的理由で子供を持ちにくい状況であるということについては、大いに同意する。
習い事をいくつかやらせたらあっという間に月に4、5万円はかかるし、私立の中学、高校に行かせでもしたら学費だけでも相当な額だ。
最近は行政からの支援が増えたが、そのほかにも物入りだ。
見栄を張るわけでもない、自分たちがやってもらったことを子供達にもしてやろうと思ってもそう簡単にはできない。
畢竟、子供など持たない方がいいとなるのも無理はない。

SNSで自分の人生を楽しんでいるようにみえる人を多く見ると、自分もそんなふうに面白く、映える人生を歩みたいとも思う。
時計の針を戻すことはできないので、いまさらどうしようもないものの、子供をもっていなければ、もっと二人で気楽な自由な夫婦生活を歩むことができたのではないかと考える。

妻は、子育てを苦労しながらも楽しんでいたが、私には苦労ばかりでだったような気がする。
子育ては私の、そして私たち夫婦の人生の中の半分以上を占めてきたように思うがそれが苦労の多いものだったとしたら、私は人生の半分以上を楽しむことができなかった、子どもたちによって楽しみを奪われてきたということになる。
こんな考え方は、私の人生に対して否定的すぎるだろうか。
今になっても、子供を持つべきだったか、よくわからない。

妻とそんなことを話したあと、

 では、この結婚もよかったのかわからない。

と、言ってしまった。
妻が、驚いた顔で、

  なにを言っているの?

と私の顔をまじまじと見た。

私は我に帰り、言ったことの重大さに気がついて、否定しその場を取り繕った。
妻は一応納得はしてくれたが、気にはなっただろう。
妻への愛情は変わってはいないものの、もし結婚しないでいたら妻に愛想を尽かされていたかも知れず、未だに続いていたかはわからない。
結婚は、人間のあやふやな心をある一点に固定してくれる強制力がある。

日本は今、未曾有の少子高齢化社会、人口減社会へとつき進んでいる。
岸田首相は、「こどもまんなか社会」の実現を表明した。
私たちは、若者が、子供を持つことが人生のリスク、結婚が人生のリスク、というような考えに陥らないようにするにはどうしたらいいかをもっと考えなくてはいけないが、懐疑的にならざるを得ないのは、人間社会が複雑化しすぎたからだろうか。
案ずるより産むが易し

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自分の考えは相手が考えていることと同じではない

2022年12月06日 | 生き方について考える
一昨日、裏山の手入れをしていた時、何かの虫に左手首を刺された。
その日のうちは、ちょっとかゆい程度で、こんな時期になっても蚊がいるのかと思っていたが、一晩明けたらずいぶん腫れてしまった。
どうやら蚊ではなくて別の虫だったようだ。
抗生物質入りのステロイド軟膏を塗っているおかげかいまのところ、化膿はしていない。
普段は左手に付けているアップルウォッチも右手に変えて少し楽になったが、思い出したように痒くなるのには困っている。
とびひ(伝染性膿痂疹)にならないよう気をつけながら、数日はこのまま様子を見るつもりだ。

昨晩のサッカーW杯対クロアチア戦は日本代表を頑張って応援していた妻の横で、私はしっかり寝ていたが、後半30分過ぎに目が覚めてしまい、PK戦まで見届けた。
仕事でヘトヘトだった上、土曜日まで仕事がぎっちり詰まっており、体調維持のためにテレビ観戦より寝ることをとった。
みんながみんなサッカーに興味があるわけではないから、全体からみれば一部だろうが、今朝はそれなりの数の日本人が眠気と戦っているかもしれない。

自分以外の誰かとかかわる時、意識しておかなくてはならないのは、相手は自分と同じことを考えているわけではないということ。
癖でもなんでもそうだが、”自分”を定義するものが仮に、沢山という意味で、一万あったとしたら、いくら意気投合した相手であっても、互いに重なるものなど、十もないのではないだろうか。
私に一番近い他人といえば、妻だが、彼女と考え方が一致することなどそんな程度だ。
それでも他の人よりは一致することが多いかもしれないが、それは単に運命共同体として生きているが故であって、その関係が崩れるようなことがあれば考えが一致することはほぼゼロとなってしまうだろう。

ここでいう考え方、というのは価値感、という言葉に近いかもしれない。
価値観という言葉は個人レベルから国家間レベルまで幅広く使われている。

 共通の価値観に基づき、両国の関係をより強固なものとし・・・

などという使い方をされるが、この場合共通の価値観が一体何を指しているかはあまりよくわからない。
日本が考えていることと相手国の考えが真逆の解釈が可能だということもあり得る。

そこで大事なことは個人レベルでも、国レベルでも、自分の考えを相手に押し付けるということは慎まなくてはならないということ。
自分では相手が気がついてないことを知らせ、良い方向に導いてあげようという親切心からそうしているのかもしれないが、別の言い方をすれば相手への考えの押し付け、お節介でしかない。
仕事で同じ職場の人間になにか注文をつけるのであれば、それは同じ運命共同体に属する自分にも関係していることなので、仕方がないところがあるが、そうでない関係、たとえば友人の場合は気をつける必要がある。
人間は神様ではないので、相手がどんな考え方を持っているかなどわからない。
自らの意見を表明するときは、他人は自分とは異なった考え方を持っているということを前提とし、それが押しつけにならないよう注意しておく必要がある。
こちらも落ち込む

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簡単に作られ誘導されてしまう世論から自分をどうやって守るか

2022年12月01日 | 生き方について考える
12月になった。
少しずつ、でも確実に時間は過ぎ、肉体は衰えていく。
そのことを教えてくれるという点で暦というのは役に立つ。
出張の疲れが抜けないままで、なかなかつらいところだが、私の任務は病院病理医としての仕事であって、遅れを生じてしまったようなら早急に取り戻さなくてはいけない。
職業人としても当然のことで、気を引き締めて仕事に取り組もう。
このところ、テレビをつけるとワールドカップサッカーの話題ばかりでうんざりする。
私はサッカーというスポーツが嫌いではなく、ベスト8進出を目標とする日本代表を応援している。
だが、今の状況は異常ではないかと、不気味ささえ感じる。

巨額の放映権料を支払ったであろうみなさまのNHKとしては高視聴率をもって、費用対効果を示すのが公共放送の義務なのかも知れないが、たかがサッカー、特番に加えニュース番組の相当な時間を費やしてまで宣伝することだろうか。
民放にしても同様で報道番組と称されるニュースショーでもうんざりするほどサッカーの宣伝をしていて、テレビのチャンネルには逃げ場がない。
視聴者と十把一絡げにされる私たちは、こういった報道、というよりは単なるサッカー番組に巻き込まれ、あたかも国民としてサッカーを注目し、応援すべきという世論らしきものの形成に加担させられている。

これはサッカーに限った話ではなく、オリンピックにしても、大リーグにしても、将棋にしても同じで、話題性があればそれを最大限に活用し、少しでも多くの人がそこに注目すべきであると誘導するが、そんなことは本当に必要なのだろうか。
いや、不要とまでは言わないが、もう少し控えめに報道してもらうことはできないだろうか。
明日、早朝の対スペイン戦で、日本代表が勝てばこの騒ぎはまだまだ続くし、負けたら終わる。
彼らにはぜひ勝って欲しいが、この騒ぎは早々に終わって欲しい。

”世論”などというものがいかに簡単に作られてしまうかを目の当たりにすると、ではどうしたら自分というものを真実から守ることができるのかということを考えなくてはいけない。
真実というものなど無いと言ってしまうと元も子もないが、言い換えれば自分が依拠することのできる、(マスコミ報道、いい加減なネット情報などの)外的要因によって左右されない考え方とでも言えばいいか。
そういうものをしっかり守り、意識的に持って生きることが大切だとつくづく思う。
落ち着いて見る

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その時々のことに真摯に向き合う

2022年11月29日 | 生き方について考える
朝焼けで真っ赤に染まった空が見えた。
庭木が大きく揺れていたが、この谷戸に吹く風は南からのもので、案の定ベランダに出たら生暖かく強い風が吹いていた。
天気予報では、夜は冷えるということでコートを手に持って出てきたが電車に乗ると汗ばんだ。

今、江藤淳の西御門雑記というエッセイ集を読んでいる。
ご近所の方から紹介していただき、ネットで探したら古本を手に入れることができた。
その中に、『理工系大の人文社会科学』という一文があり、一生に一度しか出会うことがないであろう文系の学問を東工大の学生たちに熱意をもって伝えようとする氏の講義、課題に、学生たちが熱心に取り組んでいるということが綴られていた。
こういう真面目な学生の話を読むと、自分が学生時代、その時々のことに真面目に取り組んでいなかったことを思い出し、しまった、と後悔する。

私はいかにして講義をサボるかばかりを考え、仮に出席していてもろくに聞いていなかった学生だった。
武勇伝はいくつかあったものの今となっては恥ずかしくてその一つも口にはできないガラクタばかりだ。
部活には比較的熱心に取り組んだが、せいぜいそれだけだし、チームプレイの何たるか、支えてくれる人への感謝の気持ちなどは、傲慢さのうちにかき消されていた。

若かった頃の貴重な時間を無駄遣いしたツケがいまになって重くのしかかり、人生とは取り返しのつかないものだと思い知らされる。
人間はこうして後悔という人生の澱のようなものの上を、死ぬまで生き続けなくてはならないのだろうか。
だが、いくら後悔しても過去を変えることはできない。
そうであれば、”後悔すること”すなわち過去にとらわれることは意味のないことだ。

後悔よりも未来を生きるために何をすべきかを考えることこそが必要だ。
後悔よりも過去を振り返ることで、それを2度と繰り返さないよう、行動したい。
いつもいつも全力で取り組むことは難しいが、その時々の状況に対して緩急をつけながらそれぞれを決して疎かにすることなく生きていったら、この先後悔することはあるまい。
今を丁寧に生きる

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チームの仕事に部活から学んだことが活きる

2022年11月25日 | 生き方について考える
昨晩は東京ー神奈川を結ぶ横須賀線、東海道線、京浜東北線の3路線が事故のためそろって遅延して、家に帰りついたのは午前様になった。
ただ、私の場合は職場でのいろいろでどのみち遅くなって、ちょうど帰るタイミングで電車が動き出したというのは、よかったのか悪かったのか。
今日もいい天気になりそうで、寝不足ではあるが、元気を振り絞って出勤。

その仕事、労働とその対価から成り立っている。
金を払ってくれるのであれば、当然それに対する責任があり、それをまっとうしなくてはならない。
労働の内容はさまざまだが、私が従事している医療もチームで成り立っていると考える。
患者さんの健康を守るためにチームを組んで行うわけだが、それがうまく機能しない場合がある。
ある特定の人に仕事の負荷がかかっている”ように”見えて、その人から見ると他の人が何もしていない”ように”見えてしまうことがある。

そういったことでトラブルがあり、ふと学生時代の部活のことを思い出した。
私は、中学・高校・大学と10年以上バスケット部に所属し、結局、うだつが上がらないままだったが、チームメイトのおかげでそこそこの成績を残すことができた。
そのチーム、ポイントゲッターのシューターや、ダンクをするポストプレーヤーがいたりしたが、その二人では、一チーム5人のバスケットボールはできない。
私のように足が速いだけのフォワードや、ベンチで交代を待ちながら待機する人間、そんなメンバーが必要だし、普段の練習にはそれ以上の人間がいなくては、レベルアップは望めない。
そんな中には練習があまり好きでない人間もいるし、体力的にトップチームについてくることのできない人間もいた。
だが、肉体的、精神的に強靭なチームというのは、色々な人を包含し互いにリスペクトし合うことのできる組織のことだと、ふと思った。
野球にしても、サッカーにしてもスポーツはそういうことを比較的理解しやすく、今のトップアスリートのほとんどがチームを大切にするのがどうしてなのかよくわかる。

このことを現役の時から理解していたらもうすこしまともな大人になっていただろうに、気がついたのはこんな人生の終盤に入ってから。
遅きに失した感はあるものの、このことを知らずに死ぬことにならなかったことを喜ぶべきかもしれない。

ところでそのバスケット部、奇しくも亡父が、”お前のように自分勝手な人間はチームプレーをしてそういったものを学べ”といわれて、陸上部に入りたかったのを止めさせられて入ったところだったが、おかげで今になってその意味を学ぶことができたと実感する。

 チームプレーって実社会でもいろんなところで活かさなくてはならないね

と学生時代はテニスに明け暮れていた妻にこの話をしたら、

 あら、テニスだってそうよ

と反駁された。
いや、もちろん陸上にもリレーがあったので、そんなことはわかっているし、多くのプロスポーツで、コーチをはじめとするスタッフを含めたチームこそが躍進しているのは周知のことだ。
人間一人ではやっていけない

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自分の価値観と人間的に成長する

2022年11月02日 | 生き方について考える
冬から春へ、三寒四温を何度か繰り返して季節は移り変わるが、秋から冬へも同じように寒い日と暖かい日が交互に訪れやがて季節は冬へと至る。
ちょうど今がその時期で、昨日は11月中旬の気温だったとかが、今日の日中は4、5度も高くなるとかで、マフラーは余計だったかもしれない。
それでも気温は花たちにはちょうどいいみたいで、今年の夏の猛暑から立ち直ったように元気よく咲いているのは嬉しい。

そんな元気な花たちに比べ、私自身はあまり元気がない。
ブログを書いていてもあまり楽しくないし、読み返しても、老いの繰り言、発展的なことはほとんど書いていない。
ブログというものそんなものと割り切ってしまえばそれでいいのかもしれないが、ではそんなことのために書いているのかというとそんなはずではなかったと思う。

人間的な成長を願って始めたはずなのに、いっこうにその兆しは見えてこない。
その機を逸したまま、子供たちはいつのまにか成人して私の手を離れた。
この間、東日本大震災があり、両方の父が亡くなり、犬二匹も見送り、そうこうするうち新型コロナが起こり、2年近くの空白が生まれ、トンネルの出口が見えてきたと思ったところで、ダメ押しのようなプーチン大統領の暴挙と至り、今や世界には生きること、将来への明るさがない。

人間、それぞれ、その人なりの正しいことを考えているし、行動している。
だから、その人たちの目線で社会なり人間関係を見たらまわりは迷惑だと思っていても、間違っているとは言えない。
ロシアにしても、中国にしても、北朝鮮にしてもそうだし、私が身の回りでうっとうしいと思っている人たちにしてもそうだ。
皆、自分のことで手一杯だし、自分のことを良くすることが正しいのだ。
他人を変えることはできないから、自分が考え方を変えるしかない。
それこそが、自らの成長なのだが、その成長の実感がみえない。
成長したつもりになって、成長をやめてしまうようなことになっても、それはそれでいけないわけで、結局のところいつまでたっても自分は成長し続けなくてはいけないのかもしれない。
進歩することは大変だが

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なんとか生きてくることができた人間に残された使命

2022年11月01日 | 生き方について考える
ハロウィーンの昨夜、You tubeで、渋谷駅前のスクランブル交差点のライブカメラというのを少しの間見た。
信号が変わるたびにたくさんの人が、規制線沿って行儀良く交差点を横切っていたが、その先のハチ公前広場やらセンター街の入り口には結構な数の人がぎゅうぎゅうになっているのが遠目でもよく見えた。
朝になってどうやら大きな事故は起こらなかったようだが、警察や渋谷区の尽力があってこそのことだろう、ご苦労様でした。
韓国であんな悲惨な事故があったばかりでも、やっぱり渋谷に行った人はたくさんいた。
一体どんな人が行ったのだろうかと思うが、私だって若ければ2度や3度は行って、さんざん酔っ払って、そこらへんに酔い潰れていたか、喧嘩をして大怪我をしていたかもしれないし、下手をしたら死んでいたかもしれない。
それとも渋谷などもはやおのぼりさんのいるところだからと二丁目あたりでハメを外していたかもしれないが同じことだ。
そう考えるとよく、これまでほぼ五体満足で生きてくることができたのは奇跡的なことだと感じる。
若い時というのはどうして何も怖いものがないのだろう、というか歳をとるとどうしてこう分別くさくなってしまうのだろう。

若い時は人生経験も背負うものもあまり多くないのでさまざまのリスクが分からないのだろう。
歳を重ねるごとに肉体的には強靭になり、少ないながらも経験を積むことでいろいろなことが見えてきて怖いものはどんどん少なくなる。
そんなことで馬鹿をやってしまう若者はいくらでもいるし、経験がないために期せずして事件や事故に巻き込まれてしまうこともある。

逆に歳をとると人生経験を重ね、多くのものを背負って生きるようになる。
さまざまなリスクを知るようになるし、肉体的に自分の力が衰えてくることも自覚するようになる。
さらには、社会的地位、家族といったものに対してさまざまな責任が生じる。
そういうことが重なって、年寄りは慎重に生きることを学び、分別くさくなっていく。

でも、実際に多くのものを背負っているのは、年寄りではなく若者だ。
人類の未来は若者の双肩にかかっていて、年寄りの存在価値はそれを守り、育ててあげることでしかない。
私など歳をとっても相変わらず馬鹿で、私よりもよほど立派な若者はたくさんいるので、守り育てるなどと言うこと自体おこがましいのかもしれない。
そうなると、私にできることなど、彼らに迷惑をかけないように、ひっそりと生き、やがて消えていくことなのかもしれない。
それなりに頑張りながら

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アラ還が自己肯定感について考えると

2022年10月17日 | 生き方について考える
小雨まじりの曇天で、一日中降ったり止んだりとか。
昨日のような気持ちのよい陽気は、その気持ちよさと相まって楽しかった懐かしい思い出も蘇ってくる。
そして、今日のような天気だと、気分は塞ぎ気味になってしまう。

おとといのようなことを書いてしまうのはいつもの秋の深まりと共に訪れる鬱っぽい気分のせいだろうが、それに加えて私自身の自己肯定感の低さのせいもあるのかと考えてしまう。
こんなアラ還が自己肯定感もへったくれもないが、このまま人生が終わっていくのもどういうものかと考えてしまう。
この先、自己肯定感を高めていくにはどうしたらいいだろう、それともそもそもそんなもの不要なのか。

50歳を過ぎる頃には自分の能力、適性、才能、性格、そういったものが大体わかり人生の大半は決まっている。
情報化社会の発達により、以前より格差もはっきりと目に見えるようになっている。
この先の人生では、それらを受け入れていくしかない。
新しいことを始めるといってもそれは全く新しいものではなく、それまで生きてきた経験なり糧というバックグラウンドがあってこそできるものだ。
それでも生きていかなくてはいけないのが人間であり、そこに価値を見出さなくては意味がない。

自己肯定感とは、まさにその価値に対する自己評価で、生きる意味に通じる。
どれほど頑張って(頑張ったつもりであって)も自分なりに満足のいく結果が得られないまま生きてきたとしても、それはそれで終わってしまったこと、やり直しのきかないことだ。
自己肯定感を上げるとは、自分の人生に対する自己評価を上げるということで、採点官は自分自身だ。
採点を甘くするのも辛くするのも自分であるが、どうせなら甘くしてもいいのではないかと思うが、なかなかそうできない自分がいて、秋の深まりと共に考え込んでしまうのだ。
わんこもいないし

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出世を望まない人が増えているという

2022年09月28日 | 生き方について考える
空気はすっかり秋のそれと入れ替わり、毎日過ごしやすい。
なによりも寝苦しさがない。
夜中に目が覚めて、また眠ろうと思っても、つい先日までは冷房をどうしよう、入れたら喉が痛くなるから我慢しようとか、やっぱり暑いとか、あれこれ考えるうちに寝そびれてしまうこともあったが、今はそんなことはない。
ハイビスカスもやっと元気を取り戻し、毎日花をいくつも咲かせてくれている。
私も夏バテから解放されてちょっと元気が出てきて、溜まりかけていた仕事を片付ける気になってきた。
ただ、最近思うのは私が頑張る方向を考えなくてならないということ。
もちろん人類のために役立つことがあったら率先して研究・発信するが、この先のそう偉くなるわけでもないが、そんな残り短い人生で、私が会得してきた人様に役立つ技術・知識を遺すことをしなくてはならないと思う。

例えば、大学にいる人というのは研究のためにいるはずなのに、教授になりたいだけでそこに居座っている人というのがいる。
そんな、教授になりたいという人が首尾よく教授になるのを目の当たりにすると、なるほどこれまでのあの仕事もこの仕事も全てはこのためだったのか、大したものだと思う。
それと同時に、私にはそんな真似はできないし、教授の座というものが、それほどのエネルギーを生むものであることが理解できない。

私が病理医の道を選んだ時、友人に

へー、病理に進むのですか?
やっぱり(人が少ないから)教授になりたいから?

と聞かれ、やりたいことを選ぶだけのことだと思っていた私にとって、そんな考え方があるのかとびっくりしたことがある。
それ以来、自分には教授になるチャンスはあるのか、能力はあるのかということを時々考えることもあったが、元々そんな器量なく、幸か不幸かご縁はなかった。

出世した先の世界というのが、厚いヴェールに包まれていた頃であれば、そこまで行ってのぞいてみたいと思う人もいるだろうが、”出世を望まない”というのは初めからそこに近づこうともしないということだ。

情報化社会で、生き方の上限というものが見えてきて、錦衣玉食贅沢三昧をしたところで、その裏には不公平があり、他人の犠牲があるということがわかり、そんな罪悪感を感じるようなら偉くなんてなりたくないと思うのかもしれない。
そして、いずれ人は必ず死ぬ。
ならば変なプライドなど持たないで苦労して出世しても仕方がない、そこそこの人生でいいだろう。

かつては、出世を強いる上司もいただろうが、今はそれもナンセンス。
中国では寝そべり族という言葉もあるようだが、社会人として社会に貢献しない人にも少しは役に立つことをしてもらわなくては社会が持続していかないわけで、出世を人参にしてきた価値観を変えていく必要がある。
まずは賃金上昇を

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人それぞれならそれぞれの立場を考える

2022年08月12日 | 生き方について考える
今日からお盆やすみ、大きな荷物を抱えた家族連れが目立つが、さすがに車内は空いていた。
その分電車も早く進んでくれたらいいのにそういうわけにはいかないようで、いつも通り早起きしたのに、大幅遅延。
台風がもたらす雨が降ったり止んだり、ゴミを出しに行ったときは強い雨が降っていたが、幸い駅に着いたら雲間から青空がのぞくいていて、傘をささずに駅舎に滑り込んだ。

このところのニュースは東北地方の大雨、大谷翔平、統一教会、ウクライナ侵攻など。
それぞれに関する論考はさまざまで、整理するのは難しい。
考え方がいろいろ、というのは見る人の立場によって捉え方が変わるからということもある。

例えば、大谷翔平。
彼は、息子と同い年で、羽生結弦も、反田恭平もそう。
私に子供は二人いるが、息子が彼らと同い年で、娘は下。
それだけで彼らへの考え方というのは、他の立場の人とは異なるが、そんなものだ。

電車を遅らせることになった人も、好きでそんな事態を招いたわけではない。

全てのことが普遍化できたら生きることはもっと簡単かもしれないが、そんなわけにはいかない。
だから、人それぞれとなるわけだし、それだけにその人の立場で物事を考えるということが大切だ。
努力が必要

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考えながら生きるために決めておくこと

2022年07月29日 | 生き方について考える
いよいよ本格的な夏がやってきたような気がする。
熱帯低気圧から成金のように勢力を増した台風5号が北西方向へ抜けたら、日本全国すっかり夏だ。
そうはいっても、まだ7月。
戻り梅雨のようなものがあったものの、梅雨明けが早かった分、長い夏となりそうだ。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻で、世界が包含する問題点、矛盾、限界が急速に明らかとなった。
この先のことを考えるにあたって、何か行動を起こす時、人間はみなまず自分の判断で動くので、結果として論点があまりにも多くなってしまうということがわかった。
なんの見返りもなしに他人のために死ぬ人はいない。

この先、私はまだしばらく生き続けるつもりで、そうであれば考えながら生を全うしたい。
そこで大事だと思うのが、不変の価値基準を持っておかないといけないこと。

ここまで書いて、「なんだ、これってずっと昔、2000年以上前にも考えたひとがいるじゃないか」、とモーセの十戒があるのを思い出した。
人間、考えることは大して変わらない。

私はキリスト教者ではないので、冒頭の神様についての部分には触れないでおく。
その後に続く、”あなたの父母を敬え””殺してはならない””姦淫してはならない””盗んではならない””隣人に関して偽証してはならない””隣人の妻を欲してはならない””隣人の財産を欲してはならない”については、絶対化していいか難しいところもある。
毒親を敬うとか、自分を殺しにきた人から自分の命を守るためでも殺してはならないのか、愛情が失われても相手に貞節を保たなくてはならないのか、悪人を懲らしめるために一切の嘘は許されないのか、などなど、反駁することはいくらでもできるが、それらはいずれも”常識的な”範疇を超えたところの話なので、例外としてここでは考えない。
では”常識的な”とはどう定義するのかといわれると堂々巡りになるので、先に進む。

人間の生き方というのが実はとても多様だということが明らかになるにつれ、個々人の中にその多様性が覚醒した、というのが今の世の中だ。
あんな考え、こんな考え、いろいろあるよね、ということだが、私として絶対に守らなくてはいけないことは、他人を殺してはいけない、ということだ。
殺人に意味はない。

戦争反対、は主義主張ではなく、戦争とは絶対的な悪であるという立ち位置でこの先も考えながら生きていく、ということだ。
もし、殺人を犯すとしたら、それは絶対的な悪を犯すということだ。

問題は、それらの悪をなしたところで必ずしも罰が与えられるわけではないということだ。
良心には期待できない

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