物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

旅行が好きか

2016-07-19 11:53:55 | 日記
と言われたら、好きだとはとても言えない。だが、若いときには好奇心があふれていたのか結構旅行した方だと思う。だが、この年になると別に好奇心がなくなったわけではなかろうが、どこかに出かけるのはおっくうである。

第一、食べることとかでも何を食べてもどうってことのなかった若いときとは同じにはいかない。それにトイレの件もある。自宅にいればいつトイレに行きたくなっても大抵大丈夫だが、旅行中だとそうはいかない。

以前に1月のはじめ京都南座に前進座の歌舞伎を見に行ったりしたが、それも行かなくなって数年がたつ。何時も気になるのはこのトイレのことである。
私は夜寝るのが遅いせいか朝早くにトイレを済ますことができない。そうだとなかなか旅行はできない。少なくとも団体旅行は難しい。

朝ゆっくりと朝食をとってから、用を足してから出かけることとなる。ヨーロッパに出かけてみたい気持ちもないではないが、そういうことを考えるとなかなか気持ちは動かない。

もっとも団体旅行で時間をきって行動をするという旅行は日本人のするところであって、ヨーロッパ人はどこか一カ所に落ち着いて動かないのが休暇の取り方である。

もしドイツ人ならば、マヨルカ島であったり、ニースであったり、ポルトガルであったり、はたまたギリシャであったりする。観光旅行もあるかもしれないが、どこかの海岸端のホテルで朝起きたら、一日日光浴をする場所を確保して海岸に寝そべっている。

そこで知り合う人もいるかもしれないが、まあ何のための休暇かといえば、のんびりすることらしい。これは私たち日本人にはなかなかできない心性である。

もう10年以上前になるが、R 氏の弟のクリストフが休暇をとって日本に来たときもそうであったらしいが、あまりそのときにつきあいがあったわけではないので、よくは知らない。一度だけどこかでドイツ語を学んでいる日本人たちととともにクリストフと一緒の夕食をしたくらいである。

そのときに休暇の過ごし方が日本人と少し違うのだと R 氏が日本人に説明をしてくれたことがあった。もっともこんなことはいくら説明をしてもらってもなかなか日本人には理解できないというよりも身につかないことである。

近代数学史の成立(解析篇)

2016-07-18 12:11:23 | 日記
という東京書籍の本を金曜日に図書館で借りてきた。著者は高瀬正仁氏である。彼はヨーロッパの数学者の多くの著作の翻訳をされている方である。

私も海鳴社発行の『オイラーの無限解析』『オイラーの解析幾何』をもっている。特に『オイラーの解析幾何』の方は定価が1万円近かったのではないかと思う。これは第2巻はあまり売れないだろうということで定価が高く設定されていると海鳴社の辻さんからそう聞いた。

実はこの二つの書は前から手に入れたいと思っていたが、手を出せなかったので、私が『四元数の発見』を書いたときにその印税の一部で払って購入したものである。

ところで『近代数学史の成立』(解析編)(東京図書)は’おおあたり’の数学史書であり、数学の知識の乏しい私にはよくわからないながらに、印象的な書である。すべて読んだわけではないが、高瀬さんが具象的な数学をお好みであり、抽象的な数学は学ぶ喜びがあまりないと言われているのが特に興味深かった。

こういう数学史なら興味がもてそうである。自分で読みこまれた文献をもとに自分なりの近代数学史を書くのに彼ほど適任の人はいないだろう。ご自分の好みといっては失礼だろうが、この歴史観にしたがった数学のテクストを書いてほしいと切に願っている。

ただ、これは東京図書の要望だろうが、縦書きの数学史の書であり、これはやはり横書きの書にすべきであろう。出版社の見識が問われるところである。

高瀬は数学の本質は抽象性にあるのではなく、潜んでいる本質を具象のモノの中に見つけることにあるという。本質とは何かを追求する姿勢が気持ちがいいし、やはり本物の数学者という感じがする。日本の学問の世界では彼を正しく評価できるかといわれれば、そうでもないかもしれないが、少しづつ評価されているのではなかろうか。

金曜日の夕方

2016-07-18 11:46:08 | 日記
は県立の図書館に本を借りに行った。

これは遠山 啓さんの『数学の広場』1の「数の生い立ち」を途中までしか読んでいなかったので、借用期間の更新が必要だったのと他の本を返却して新しい本を借りるためであった。それでその日の土曜日にようやく上記の本を読み終えたのだが、一個所すぐにわからないところがあった。

特に注釈もなく、新しい復刊版の編者も注をつけていなかった。それでも私にわからなかったのだ。土曜日の昼ころに図を見たら、三角形の相似比を使えば、難なく望みの三角形の一辺の長さがわかった。私が編者ならば、ちょっと注をつけただろうが、復刊版の編者にも難しくはなかったらしい。もっとも復刊版の編者は中学校や高校で数学を教えていた先生であるから、難しくはないのは当然であろうか。

先日、数学ガールの秘密ノートのシリーズがわかりやすいと書いたが、この遠山さんの『数学の広場』も数学教育的には優れたシリーズである。あまり難しいことは言わないで、淡々と書いてあるが、なかなかその含意は深い。

今日は3連休の最終日

2016-07-18 10:59:38 | 日記
ということで仕事場に出てきた。昨日と一昨日は珍しくお休みにした。昨日は日曜なのでお休みはいつものごとくだが、一昨日は土曜だったので、普通はお休みにしないのだが、妻とマネキネマの若尾文子の映画祭の一つの映画を見たのだ。

婚期という映画でコメディである。若尾文子扮する、ある資産家の次女が若尾文子であるが、もう両親は亡くなっていて、この次女は29歳で婚期を逃しつつある。

コメディーなので、傍からみれば、お笑いなのであるが、当人たちには深刻な事態ではある。まあ、最近ならば女性が30歳半ばでも婚期を逃したとかいうことは言われないだろうが、これはなにせ1961年の映画である。

私はあまり大映の映画を見たことがなかったので、あまり若尾文子にもスクリーン上でお目にかかったことがなかった。

また昨日はながえ孝子を支える集いに参加した。この集まりに予想を超える人数が集まったらしく、主催者はうれしい驚きをあげていた。ながえ孝子さんのご挨拶もあったが、今回の選挙で惜敗をしたことで次こそはという気がまわりの人たちにも満ち溢れていた。

ご本人がどう判断されるかはわからないが、当選した候補との差は約8000票と僅差であった。これは愛媛の保守的な風土を考えた時に驚くべきであろう。

梅雨明け近し

2016-07-15 11:18:44 | 日記
まだかあっとした暑さではないが、セミが庭で鳴きはじめた。梅雨明けは近いであろうか。セミが鳴きはじめると本格的な夏の到来を思わせる。もちろん、あの暑さが帰ってくるということでもある。

夏の高湿度と高温は何年日本人として生きて来てもなかなか慣れるという訳にはいかない。若いころには、夏休みに本を読もうと思ってもぼうっとしてしまって、夏休みに勉強が進んだという記憶がない。

いまなら、ひどい暑さと高湿度はエアコンで何とかやり過ごすこともできるが、私が学生のころはまだそういうエアコンが一般化してはいなかった。高額のエアコンはあったかもしれないが、私たちには手に入れることはできなかった。

そういう意味ではいい時代に生きているということだ。それに今朝は湿度が比較的低く過ごしやすかった。午後にかけて温度と湿度があがってくることだろうが。

8月になれば、高温はあるけれども、湿度が少しづつ下がり始めて高温の割には過ごしやすくなる。だが、その8月までにはまだ3週間以上ある。


対称な二重井戸型ポテンシャル

2016-07-14 10:08:13 | 物理学

対称な二重井戸型ポテンシャルの魅力はどこにあるか。これは基底状態と第一励起状態のエネルギーレベルが近いことにある(注)。

そういう現象は他にはないかというとある。たとえば、中性子と陽子の質量が近い。これらは核子のアイソスピンのダブレットとして考えられている。

現在の素粒子論では中性子や陽子はそれらが '素’ 粒子ではなくて、複合粒子のハドロンと考えられる。そして坂田モデルで考えられたp,n,\lamdaの代わりにダブレットである、6つのクォ―ク(u, d),(c, s),(t, b)がハドロンを構成していると考えている。いわゆる小林・益川の理論である。

いま、クォークの質量は昔風の量子力学のポテンシャル問題としては考えられないだろうが、それでも比較的(u, d)の質量は他のクォークのダブレット比べれば、近いかもしれない。

それで、この二重井戸のポテンシャルを用いて、何か説明ができないかと夢想してきたが、いまに至るもそういうヒントを用いて解決を見出すことは私にはできていない。

量子力学を教えていたころに、このポテンシャルの二重井戸でうまく説明されている現象にアンモニア分子の基底状態のエネルギー準位と第一励起状態のエネルギー準位が近接していることを知った。基底状態は対称な量子状態であるが、第一励起状態は反対称な量子状態であるので、すこし波束が広がって、エネルギーが基底状態よりも大きくなる。

荒っぽく考えると、右のポテンシャルの谷にある孤立した波の状態と左のポテンシャルの谷にある孤立した波の状態との二つの状態の重ね合わせとして量子状態は考えられるので、その二つの孤立波を対称に重ね合わすか、反対称に重ね合わすかによって、二つの量子状態ができている。

しかし、古典的にはどちらもポテンシャルの底の高さも同じであるのだから、それを反映して二つの量子状態のエネルギー準位は近接したものとして現れる。

場の理論でのファイ4乗理論でも同じ形のラグランジアンがとられる。式の形は対称な二重井戸ポテンシャルと同じ形だが、意味はちがってくる。それが自発的対称性の破れの一つの例であることを知ったのは70年代の中ごろであった。

このラグランジアンを対称な形から崩すことも考えられるが、それがカタストロフィー理論と言われるものの一番簡単な例である、カスプ・カタストロフィーであることの指摘は1975年だったかに先月亡くなった, N さんたちと論文にした(Proc. Roy. Soc.に掲載された)。

その論文のなかで、ちょうど対称なポテンシャルにあたる二重井戸の場合がカタストロフィー理論のMaxwell規約というものにあたっている、という指摘をした。上に述べた理論はそれ以外には特に内容のない論文であったが、どうしたものかレフェリーからの特段の意見もなくパスした。

もともと二重井戸ポテンシャルを江沢洋さんたちが、量子力学の例題として取り上げたのも彼らは場の理論でのファイ4乗理論が頭にあったためらしい。

最近、伏見康治さんの物理学の論文選集が日本評論社から出されたが、それにも量子力学の例題として二重井戸の例が出ている。これは厳密解が存在していないためにどうやって解くかに彼らも関心があったのであろう。

だが、それはもう半世紀以上も昔の話題となっているので、新しい話題として取り上げるためには何か特別な問題意識が必要であろう。

(注) 第2励起状態と第3励起状態とのエネルギーを近づけるためには、二重井戸のポテンシャルを深くすればいい。しかし、このときでも基底状態と第一励起状態ほどにはもちろんエネルギー準位を近づけることはできない。

(2021.10.27付記) ごく少数だが、ときどきこのブログに関心を持つ方がおられるからにちがいない。なにか注目をひくような面白い現象があればいいのだが。

(2024.4.11付記)対称な二重井戸型ポテンシャルとは関係がないのかもしれないが、このブログが注目を集める理由の一つがやはり場の理論における自発的対称性の破れのいちばん簡単な例になっていることも、その潜在的な理由であろう。

実は昔カタストロフィー理論との関連でこのファイ4乗理論を学んだことがある。このときはじめて対称性の破れのことを知った。もう文献は忘れてしまったのだが、phys. reportに私にもわかる自発的対称性の破れについて書いてある論文があった。

論文の共著者となったNさんもこの本を読んでたぶん私と同様に自発的対称性の破れについて知ったのだと思う。彼が九州大学の素粒子論研究室で話をしたのが、対外的に話がされたのはこのときが初めてだったと思う。Proc. Roy. Soc.の私たちの論文は別刷りの請求がかなりあった。

論文の筆頭著者となった私の上司のA先生がそういう経験を生まれてはじめてもったので、ご満悦であった。

『ファインマンに叱られたよ』

2016-07-13 10:25:35 | 日記

『ファインマンに叱られたよ』と会った途端に言われた。先ほど講演をされていた、Mi. Kobayasi先生の一言である。このとき K 先生は中間子国際会議50年の招待講演で中間子論研究を回顧した講演をされたのだが、どうも話がおもしろくなりそうだなと私が思った矢先にそのセッションの議長さんから講演時間の超過で講演を終わりなさいと知らせが入った。

このときの議長がファインマンさんと素粒子論の研究者の間ではYYさんといえば、すぐにわかる、ある優れた研究者であった。残り時間を示す紙切れに YY 博士は5分と書かれたらしいが、ファインマンさんがバツの印を入れられて1分となっていたらしい。この辺は K 先生の言である。

それでしかたなくK 先生は講演を終えられたのだが、会議の参加者である日本人の私には当時の事情をもうすこし聞きたいような気がしたものだった。

事前の組織委員会との打ち合わせでは十分に時間をとって話をして下さいとのことだったらしいが、K 先生は日本語で講演をされており、その直後にその部分の英訳をどなたかが読み上げるという方式で講演が進行していた。それが思いのほか講演時間をとらせることとなった。それでファインマンがいらいらとして議長権限で講演時間の超過で講演を打ち切らせたらしい。

この残り時間を知らせた紙切れが K 先生にファインマンに叱られたと感じさせたようだ。この話はもうご当人の K 先生も亡くなられているので、他のところでも K 先生がもし同じことを他の方に話しておられなければ、私しか知らないことである。

その後になって、ファインマンさんは自伝の一つでこのときのことを述べておられた。もちろんファインマンさんは K 先生の名前など挙げておられないし、中間子50年の国際会議のときの話だとも書かれてはいなかったと思う。しかし、自伝のその部分を読んだときに K 先生から聞いた話をありありと思い出した。

ファインマンさんは時間の制限があるのだから、他の人にも発表の時間を与えなければならないと書かれていた。それはそれでまったくの正論である。だが、どうもそれが講演の仕方によって予想外の時間がかかったこととか、組織委員会は K 先生に中間子論研究についての十分な回顧の話に時間を与えるつもりだったらしいとか。そこら辺が組織委員会の意図と実際の時間経過との行き違いがあったと思われる。

現在ではファインマンさんも亡くなり、もちろん K 先生も亡くなってしまった。それで単に歴史的事実として私の記憶にかすかに残っているだけである。

十年以上にわたって、このブログを書いているので、すでにこの事実を私自身がブログのどこかに書いているかもしれない。だが、多分このことを書いたのは今回がはじめてではないかと思う。それは K 先生にとってあまり名誉なことではなかろうと私が書くのをためらったことにある。

時間的にいえば、中間子論50年(Meson 50)は1985年のことであり、それから30年以上が経過したので、歴史的な事実として記録しておいてもいいかと思うようになった。

なお、K 先生は私が E 大学に勤めるためにご紹介・推薦をしてくださった方であり、私にとっては昔風の言い方で申し訳ないが、ご恩のある方である。私は先生の門下生でも、K 大学の出身者でもないのだが、そういう打ち明け話をして下さるくらいに親しくして下さった。 


武谷三男著作目録(第5版)

2016-07-12 12:11:31 | 日記
武谷三男著作目録(第5版)がほぼ完成した。まだ、数日手元に置いて見返すことにする。

私は慌て者だし、人間としては緻密な方ではないので、このように安全のために時間をかけた方があぶなくないのである。

著作集目録の初版がでたのは2005年だと思うので、5版が出るまでに11年かかったことになる。この著作目録は本になった者だけを対象にしているので、雑誌等に投稿された書籍に収録もされていない、論文やエッセイを集めた、リストは別につくらなければならない(注)。

もっとも普通の意味での学術論文とかは別にすでに「武谷三男業績リスト」がある。これも第3版まで出されているが、ごく最近になって第4版の編集が必要とされることになったとはこのブログですでに述べたかもしれない。

いずれにしてもそのどちらも『素粒子論研究・電子版』に投稿をするつもりである。

(注)新聞とかへの寄稿はなかなか見つけにくいが、雑誌への寄稿は国会図書館の検索が役に立つのだが、これには記載されていない情報も論文リストには収録したいと思うと、国会図書館の検索はとっかかりにすぎない。だが、それにしても国会図書館のサーチが大いに役立つことはまちがいがない。そろそろそういう広範な論文リストをつくらなければならないときが、来ている。

(2019.4.19付記)
現在では武谷史料研究会等で雑誌や新聞に掲載された論文やエッセイがされつつあり、国会図書館の目録以外に実物にお目にかかることができるようになっている。だが、武谷の書いたこれらの資料は膨大であり、その目録は部分的なものはつくられているものの包括的なものはまだないと思う。それらをつくることは労多くして功は少ないのだが、いつかは挑戦してみたい。

よくわかるときとあまりわからないとき

2016-07-12 11:46:29 | 日記
これはドイツ語で話している人のいうことがよくわかるときとあまりわからないときとがあるということだ。これはどうしてなのか。

どうも思考のスタイルとかその人が話すときに使われる語彙とかにもよるのであろう。発想がすぐに理解できるときもあれば、まったく理解できないときがある。

理解できないときは結局字幕に頼るのだが、これは映画なんかでもそうである。急に英語がどんどん聞こえるときにはその一連の言葉がわかることもまれにときどきあるけれども、大体が映画が字幕でも聞き取れないことの方が多い。

映画などはドイツ語での映画を見ることはほとんどないので、見るのはたいていは英語のドラマである。それでも何年英語を聞いているのかもうわからないくらい長年なのだが、なかなか聞き取れない。

これは外国語によらない。物理や数学の本を読んでもその発想がわからなくて、煙にまかれたようになることがある。
朝永の『量子力学II』(みすず書房)のはじめの方を必要に迫られて読んでいるのだが、そこの箇所は自分流には理解できたが、元のテキストに則した理解ができなかった。

それで、数日、または1週間くらい考えていたが、本の筋にしたがってようやく理解ができた。私は理解が遅い方なので、いつも時間がかかる。もっとも自分流の理解の方がわかりやすいのではないかと思ったりしている。

だが、テクストの導き方から外れてしまうのが難点である。

参議院選挙

2016-07-11 12:55:25 | 日記
私のすんでいる県も野党統一候補が善戦したものの、残念ながら当選はできなかった。残念である。なかなか保守の壁は厚い。

全県で約1万票の差をつけられた。県都の M 市などは野党統一候補が一位とはなっているが、当選した Y 候補の出身地で約1万票の差をつけられている。それを他の市でひっくり返すだけの得票を得ることができなかった。

それと周辺部ではなかなか自民党の得票が多くて、ここでの得票をひっくりくりかえすことは至難の業である。どうして農村部や周辺地域で自民党の得票が多いのかはわからない。

知人が M 市の周辺の市に住んでいるが、なかなか独自の意見をもてないという。まわりの監視の目はなかなか強い。

全体的にも与党の大勝利であり、野党連合はなかなか成果をあげることができない。それどころか後退であろう。

これは朝日新聞とかがいろいろ論陣を張って見てもなかなかその意見は全国的には浸透していないことからもわかる。全国的にいえば、購読者数は朝日新聞よりも読売新聞の方が多いのだから。

もう何十年も前に日本通の外国人の経済通の方が、「日本人はこれくらいでいいと思っているのですよね」とテレビで述べていたので、妻が「はっとしてそうなのかと目の鱗が落ちた」とことあるごとに言う。

それからでも何十年も経った。社会の暮らしは非正規社員が増えて4千万人とかいう。それでもその人たちからの怒りの声は届かない。これらの人が減らないと社会に消費のマインドは起こらない。これはどう補正予算を組んでみても一過的なものであり、抜本対策にはならない。

おおさか維新の会は規制緩和が必要だと言っているが、規制緩和のおかげでいまの非正規社員が大幅に増えたということではないのか。それを推し進めてもお先真っ暗ではないのか。

新しい技術革新が必要なことはわかっているし、新しい産業の芽を伸ばすことができなければならないことはわかっているが、それを推し進める方法は誰にもわっていないかの如くである。

Nさん逝去

2016-07-09 13:25:03 | 日記
物理学者であった、N さんが亡くなっていたことを友人の E さんからの電話で知った。N さんは物理専攻であったが、工学部の電子工学科に勤めておられ、情報処理関係の講座をもたれていた。

最後には定年退職の前の10数年は情報工学科の教授であり、退職後はソフトの作成とかの IT 関連のサービスをする会社を設立されていたが、このころはもう縁遠くなっていたので、あまり何をされていたかは存じあげない。

ときどき大学の退職教官の会でお見かけしていたが、あまり言葉を交わすことがなくなっており、疎遠になってしまった。大腸ガンの手術をされたとか風のうわさで聞いたが、大腸ガンは手術が成功すれば、あまり心配ないとも聞いていたので、それほど深刻には考えていなかった。

私が彼を見かけた一番最後は昨年夏の安保法制の反対のデモで2度ほど見かけたのが最後だった。そのときに声をかけなかったが、お互いにその存在は認識していたと思う。

情報関係分野の人で割と初期に数式処理に関心をもった人の一人であり、大学を退職するころには数式処理学会の会長をされていたと思う。もっとも数式処理に関心をもったのは私の方が先であり、彼はそのころはむしろ数値計算上の効率的な処理を研究テーマにしていたと思う。数理解析研究所で当時あった研究会か研究グループのC & Aのメンバーであったと思う。その後、数式処理と数値計算を組み合わせたソフトの開発に研究の重点を移して行かれて、最後には数式処理学会の会長に選出された。

物理学者としてのスタートはNN散乱におけるBS方程式の数値的解法をテーマとされていて、学位もそのテーマでとられたと思う。

若い時にはいろいろと接触があり、いくつかの論文を一緒に書いたこともあるが、中年以降はあまり接触がなくなっていた。ご冥福を陰ながらお祈りする。

意外な発見

2016-07-08 17:34:14 | 日記
といっては失礼になるだろうか。今日の午後にE大学生協に行って、武谷三男著作集の中、オンデマンド版になっているもの、2巻から6巻を受け取ってきた。

それと同時に前から定期的に注文していた「伏見康治コレクション」シリーズの別巻である、物理学論文選集・原子力論集をも受け取ってきた。

この本が特別に8000円と他の巻と違って高価になっている。それはこの巻を買う人が少ないからであろう。ところで、その巻には伏見さんの書かれた論文の選ばれたものと、論文目録が載っている。これを眺めているとM.Taketaniが共著者になっていると思われる、原子核実験の論文が二つ入っていた。

まさかこんなところに武谷三男が共著者になっている論文があるとは知らなかった。これは多分数学物理学会の機関誌であるProceedingsに載った論文である。武谷が雑誌「世界文化」の一件で特高に捕まった後で、不起訴になり留置所から出てきた後は菊池正士さんのグループに入れてもらい、原子核実験を始めようとしたことは知っている。

しかし、そのときにはあまり成果が出なかったという風に文献を読んで知っていた。だが、その頃には菊池さんの原子核実験のグループは大所帯となり、関係している物理学者をすべて共著者として論文を出していたらしい。

どれくらい彼の寄与があったかは知らないが、菊池さんはなかなかの大人物であったので、将来のことも考えて論文の共著者にしたのであろう。

武谷が書いているところでは菊池さんは自分の親戚となる、美濃部達吉さんがやはり特高に捕まったりしていたので、武谷に同情的であったらしい。

武谷は菊池さんの下でガンマ線の実験か何かをやっていたとのことである。その成果があまり出る前に世話をする人があって、東京の理化学研究所の方へ移籍をするのだが、それ以前の2年ぐらいの間のできごとであろう。

いまはもう物理学会の機関誌へのアプローチがフリーになっているであろうか。調べてみたい。

(2016.7.9付記)日本物理学会のホームページを調べると戦前のProceedingsのpdf文書がフリーでプリントできた。ただ、印刷をしてみるとその字はほとんど読めないくらいに薄かった。まあ古い文書だからしかたがないのだろうか。

オンデマンド出版

2016-07-08 12:52:57 | 日記
なんてことができるようになったということか。でも1冊1冊が高価でなかなか年金生活者のにはつらい。

昔に出版された良書が最近はオンデマンド出版とかまたは文庫で手に入るような時代になっている。だが、オンデマンドは本当にオンデマンドなのか、かなり高価である。それでも場合によっては泣く泣く高価なオンデマンド出版を利用するが、それもごく限られた場合にしか利用しない。

「武谷三男著作集」6巻(勁草書房)のうち、第1巻の『弁証法の諸問題』を除いて2巻から6巻まではオンデマンド出版で出されるようになっている。題してkeiso c books というシリーズの中に入っている。それで、著作目録をつくっている者としてはしかたなく、2巻から6巻までを購入した次第である。

もっともまだ手元にもっているわけではない。以前に勤めていた大学の生協書籍部に届いたという通知をさきほどもらったばかりである。

選挙の予想

2016-07-08 12:21:58 | 日記
参議院議員の選挙が終盤に入った。今日朝日新聞に全国の選挙区の予想が出ていた。いつも思うことだが、こういう予想はどうやってするのであろうか。それが疑問である。

私の応援している、ある候補は別の候補にまったく引き離されているという話が選挙に入る前は聞こえてきたが、ところがここ数日では「競り合い」と出ていた。

野党連合は一般的に与党連合に比べて旗色がわるい。だが、この保守色一色といっていい、この県で結構善戦しているとすれば、立派なものである。もっともこの候補は選挙後に善戦したと回顧されるのにはもう満足しないで、さらに進んで勝利へと意欲を持ち始めたようである。

もっともこんなことを書くと選挙違反になるのかどうか。なかなか選挙における法律のしばりは厳しいらしい。そういうことも知らない程に私は選挙のど素人である。


シルク・ド・ソレイユ

2016-07-07 09:53:49 | 日記
昨晩NHKで「爆笑問題」の裏側潜入の番組を見ていたら、シルク・ド・ソレイユという東京に来ているカナダのサーカス団の裏側潜入の話であった。

そのときにシルク・ド・ソレイユのド・ソレイユはわかったが、シルクがわからなかった。「太陽の絹?」なんて変だなと思った。

自分で調べてはみなかったのだが、今朝になって妻は私が尋ねないのにシルクとはサーカスでソレイユは太陽だという。それでシルクはcircとでも書くのだろうと思って、いまこのブログを書く前に辞書を引いたのだが、circという単語が辞書にはない。

もうちょっと辞書を調べているとシルクはcircではなくて、cirqueであることが分かった。もちろん、このcirqueはサーカスの意味である。しかし、私は日本語の音だけを聞いているとシルクは絹くらいしか思いつかなかった。

もっともフランス語で絹をどういうか知っていたはずだが、いま思い出せない。

そうこうするうちに、そういえばソワ・ド・レーヌという語をそこはかとなく思い出した。これが何を意味したか忘れたが、ひょっとしたら、絹はソワであったかもしれない。

そこでいま辞書を引いたら、やはり絹はsoieであったが、辞書の発音記号ではなくてカタカナ発音ではスワとなっている。しかし、わたしはスワだという発音では覚えていない(注)。

ちなみに、レーヌをlaineだとするとこれは羊毛の意味だとある。そうするとソワ・ド・レーヌは何を意味していたのだろうか。もしかしてソワ ウ レーヌをまちがえてソワ・ド・レーヌと覚えていたのだろうか。

レーヌがreineであれば、これは女王を意味するのでsoie de reine は「女王様の絹」ということになるが、日本人の常としてlとrとの区別が私にはつかない。

(注)soieがカタカナ表記でスワかソワかだが、どうもスワの方が正しいと思える。フランス語のoiはワと発音するのでsoieはスワであろう。しかし、oiのoがあるのでソワとまちがって覚えたのかもしれない。もっとも発音するときにどちらであってもそんなに区別が私にできるとは思えない。