物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

対称な二重井戸型ポテンシャル

2016-07-14 10:08:13 | 物理学

対称な二重井戸型ポテンシャルの魅力はどこにあるか。これは基底状態と第一励起状態のエネルギーレベルが近いことにある(注)。

そういう現象は他にはないかというとある。たとえば、中性子と陽子の質量が近い。これらは核子のアイソスピンのダブレットとして考えられている。

現在の素粒子論では中性子や陽子はそれらが '素’ 粒子ではなくて、複合粒子のハドロンと考えられる。そして坂田モデルで考えられたp,n,\lamdaの代わりにダブレットである、6つのクォ―ク(u, d),(c, s),(t, b)がハドロンを構成していると考えている。いわゆる小林・益川の理論である。

いま、クォークの質量は昔風の量子力学のポテンシャル問題としては考えられないだろうが、それでも比較的(u, d)の質量は他のクォークのダブレット比べれば、近いかもしれない。

それで、この二重井戸のポテンシャルを用いて、何か説明ができないかと夢想してきたが、いまに至るもそういうヒントを用いて解決を見出すことは私にはできていない。

量子力学を教えていたころに、このポテンシャルの二重井戸でうまく説明されている現象にアンモニア分子の基底状態のエネルギー準位と第一励起状態のエネルギー準位が近接していることを知った。基底状態は対称な量子状態であるが、第一励起状態は反対称な量子状態であるので、すこし波束が広がって、エネルギーが基底状態よりも大きくなる。

荒っぽく考えると、右のポテンシャルの谷にある孤立した波の状態と左のポテンシャルの谷にある孤立した波の状態との二つの状態の重ね合わせとして量子状態は考えられるので、その二つの孤立波を対称に重ね合わすか、反対称に重ね合わすかによって、二つの量子状態ができている。

しかし、古典的にはどちらもポテンシャルの底の高さも同じであるのだから、それを反映して二つの量子状態のエネルギー準位は近接したものとして現れる。

場の理論でのファイ4乗理論でも同じ形のラグランジアンがとられる。式の形は対称な二重井戸ポテンシャルと同じ形だが、意味はちがってくる。それが自発的対称性の破れの一つの例であることを知ったのは70年代の中ごろであった。

このラグランジアンを対称な形から崩すことも考えられるが、それがカタストロフィー理論と言われるものの一番簡単な例である、カスプ・カタストロフィーであることの指摘は1975年だったかに先月亡くなった, N さんたちと論文にした(Proc. Roy. Soc.に掲載された)。

その論文のなかで、ちょうど対称なポテンシャルにあたる二重井戸の場合がカタストロフィー理論のMaxwell規約というものにあたっている、という指摘をした。上に述べた理論はそれ以外には特に内容のない論文であったが、どうしたものかレフェリーからの特段の意見もなくパスした。

もともと二重井戸ポテンシャルを江沢洋さんたちが、量子力学の例題として取り上げたのも彼らは場の理論でのファイ4乗理論が頭にあったためらしい。

最近、伏見康治さんの物理学の論文選集が日本評論社から出されたが、それにも量子力学の例題として二重井戸の例が出ている。これは厳密解が存在していないためにどうやって解くかに彼らも関心があったのであろう。

だが、それはもう半世紀以上も昔の話題となっているので、新しい話題として取り上げるためには何か特別な問題意識が必要であろう。

(注) 第2励起状態と第3励起状態とのエネルギーを近づけるためには、二重井戸のポテンシャルを深くすればいい。しかし、このときでも基底状態と第一励起状態ほどにはもちろんエネルギー準位を近づけることはできない。

(2021.10.27付記) ごく少数だが、ときどきこのブログに関心を持つ方がおられるからにちがいない。なにか注目をひくような面白い現象があればいいのだが。

(2024.4.11付記)対称な二重井戸型ポテンシャルとは関係がないのかもしれないが、このブログが注目を集める理由の一つがやはり場の理論における自発的対称性の破れのいちばん簡単な例になっていることも、その潜在的な理由であろう。

実は昔カタストロフィー理論との関連でこのファイ4乗理論を学んだことがある。このときはじめて対称性の破れのことを知った。もう文献は忘れてしまったのだが、phys. reportに私にもわかる自発的対称性の破れについて書いてある論文があった。

論文の共著者となったNさんもこの本を読んでたぶん私と同様に自発的対称性の破れについて知ったのだと思う。彼が九州大学の素粒子論研究室で話をしたのが、対外的に話がされたのはこのときが初めてだったと思う。Proc. Roy. Soc.の私たちの論文は別刷りの請求がかなりあった。

論文の筆頭著者となった私の上司のA先生がそういう経験を生まれてはじめてもったので、ご満悦であった。