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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

猫又橋

2019-06-19 06:40:52 | 谷端川・小石川3

 豊島、文京の区境を離れ百数十メートルで不忍通りを越えます。そこには猫又橋が架かっていました。「狸橋 小石川氷川の社の下、此流を小石川といふとぞ。相つとふ、むかし此辺に狸ありて夜な夜な赤手拭をかぶりおどるといふ事、子供むかしの物語あり」(「続江戸砂子」) 猫又は年を経て妖怪化した猫のことで、鎌倉時代の「名月記」や「徒然草」にも登場します。ただ、今回の橋名に関しては、根っこの又を橋代わりに渡したとの根っこ又説が有力で、→ 「江戸名所図会」にも紹介されています。「猫狸橋 同所西の方、小石川の流れに架せり。南向亭茶話云く、昔大木の根木の股を以て、橋にかへて架したる故に此名ありとぞ」

 

Nekomata1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Nekomas4

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. プラタナス通りの一つ北側を並行する路地で、ここでも蛇行が目立ちます。 

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    2. 上掲「地形図」にも特徴的に描かれている、山型の蛇行に差し掛かります。 

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    3. 山型の頂点を抜け、不忍通りに突き当たる手前で中断します。 

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    4. 不忍通りを越えます。大正7年(1918年)通りの開通に伴う猫又橋の遺構は→ こちらで、越えた先の左手に展示されています。 

大塚三業通り3

2019-06-18 06:20:19 | 谷端川・小石川3

 東福寺橋跡を過ぎ、巣鴨小学校前から300mほどで、豊島、文京の区境に差し掛かります。江戸時代には巣鴨村と小石川新田が入会になっていたところで、明治に入り巣鴨町と小石川区に分かれました。なお、小石川新田は護国寺造成の時の砂利取場で、享保年間に新田開発されました。谷端川流域は村方の耕地でしたが、左右の段丘斜面は武家屋敷が占め、それが大正末から昭和の初めにかけて、相次ぎ宅地造成されました。ちなみに、区境付近にあったのは上総鶴牧藩水野家や六千石の旗本、平岡家の下屋敷です。

 

Sangyo3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右カーブの次は左カーブと、相変わらず蛇行する大塚三業通りを南下します。

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    2. 区境となっている坂は、昭和の初めに左岸段丘一帯を宅地造成した際の開削です。

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    3. ここは左手文京、右手豊島ですが、その先で区境は右手に離れ、どちらも文京になります。 

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    4. 大塚三業通り(及び地下の下水道千川幹線)は、右カーブでプラタナス通りに合流します。

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    5. 一方、谷端川は直進し、上掲写真正面の公園先の路地に連続します。

大塚三業通り2

2019-06-17 06:12:10 | 谷端川・小石川3

 熊野橋(熊野窪橋)の架かっていたところから二百数十メートルで、東福寺前に架かる東福寺橋です。「新編武蔵風土記稿」では「長四間」の土橋ですが、「東京府志料」では松下橋と名を改めて収録され、「板橋長六間幅四尺五寸、旧名東福寺橋ト云、然ルニ橋辺に松樹アルニ因テ今ノ名ニ改ム」と付記されています。もっとも、その後の地図では、東福寺橋となっているので、この改名は定着しなかったのでしょう。なお、橋名の由来となった東福寺は、初め小石川大塚にありましたが、元禄4年(1691年)に当地に移ってきたお寺です。

 

Sangyo2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 熊野橋から東福寺橋までの200m強も、同じようにクネッた道路が続きます。

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    2. ここまでの左カーブから一転、しばらく右カーブが続きます。

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    3. 東福寺橋の架かっていたところで、→ 東福寺は左手段丘上です。 

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    4. 昭和22年(1947年)開校の巣鴨小学校前を蛇行しながら離れます。

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    5. 小石川村との境が近くなります。江戸時代にはこれまでの農地から一転、大名、旗本屋敷が点在していたところです。

大塚三業通り

2019-06-15 06:07:38 | 谷端川・小石川3

 大塚駅南口の東端で、谷端川は都道436号(ここからはプラタナス通り)を離れます。地図でもそれとわかるクネッた道路がその名残で、大塚三業通りと呼ばれているところです。通りの名前は大正時代に料理屋、芸者置屋、待合の三業の営業が認可され、大震災からの復興とともに、東京屈指の花街に成長した大塚三業地に由来します。昭和初期の暗渠化の時には、その最盛期へと向かっていたわけで、周囲にはすでに住宅が密集していたのでしょう。通常なら区画整理によってある程度改修してから暗渠化するのでしょうが、この区間は流路そのままをなぞったような、蛇行の跡が顕著に残されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図 / 早稲田)」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。地図中の神社マークは、右上隅が子安天満宮、左下が熊野社です。

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    1. 大塚三業通りの入口です。プラタナス通りより一段低くなっています。

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    2. 右カーブの先は蛇行しながら東南に向きを転じます。

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    3. 左右に蛇行する通りに面して、三業名残の料亭が点在しています。

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    4. 熊野橋(熊野窪橋)が架かっていました。→ 「沿革図書附図」の子安天満宮からの小支流の合流もこのあたりです。 

天祖神社

2019-06-14 06:55:18 | 谷端川・小石川3

 境内にある由緒書によると、天祖神社の創建は元享年間(1321~24年)、豊島氏中興の祖といわれる景村のとき、巣鴨村鎮守として祀られたと伝えられています。江戸時代、鬼子母神信仰により鬼子母神の娘ともいわれる十羅刹女(じゅうらせつにょ)神が合祀され、明治に入り神仏分離によって天祖神社と改称、今日に至っています。一方、→ 十羅刹女堂は別当だった福蔵寺に属しましたが、同寺が火災で焼失し東福寺と合併したため、現在は東福寺境内に祀られています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 十羅刹女堂」  見ずらいですが右上隅に藤橋の別名、「乞食橋」とあります。また正面にも橋が架かっていますが、 → 「沿革図書附図」の描く、池からの小流れにかかわるものかもしれません。 

 「新編武蔵風土記稿」が「十羅刹社 鬼子母神を合祀す、村内の鎮守とせり」とし、あるいは「江戸名所図会」が「十羅刹女堂 巣鴨本村、藤橋の川より南の方にあり。別当は真言宗にして福蔵院と号す。里老云、昔此地に鬼子母神の像を安置してありしが、賊の為に奪はれて今は雑司ヶ谷にありと。其説是非知るべからずといへども、云伝ふるに任せて是を載すのみ」と書いているのは、こうした事情によっています。

 

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    ・ 天祖神社  天明年間(1781~89年)造営といわれる旧社殿は、昭和に入って改築を経て、第二次大戦末に空襲で失われました。現在のものは昭和40年代の再建です。

 <藤橋>  王子道に架かる藤橋は旧巣鴨村内最大で、「御府内備考」の数字で「長五間」、「東京府志料」は「板橋長六間幅一間二尺 橋辺藤多キ故ニ名トス」と書いています。→ 「巣鴨村絵図」にももちろん描かれていますが、原本には「コジキバシトモ云」と付記されており、この別名は「江戸名所図会」でも確認できます。なお、「嘉陵紀行」の「新曽妙顕寺詣の記」のなかに、大塚波切不動前から庚申塚に向かう途中、「橋をわたりて行ば、浅茅がもとにかやふく家あるは、乞丐(こつがい)の徒のすめる処なりけり」との一節があります。(3kmほど下流の善光寺坂、沢蔵司稲荷境内に保存された→ 親柱には「ふじはし」とあります。)

 


大塚駅前2

2019-06-13 06:38:04 | 谷端川・小石川3

 「御府内沿革図書附図」を見ると、藤橋と十羅刹の間に三つの池があり、各々から谷端川に注ぐ小流れが描かれています。藤橋と十羅刹の間というと、現在の大塚駅にあたりますが、駅周辺はすり鉢状の低地になっており、かっては大きな沼地だった可能性があります。それが、耕地化の過程で縮小し、いくつかの池が点在するようになった、そんな想像を駆り立てられる描き方です。巣鴨の地名由来に関し、大塚駅周辺の地形を指摘したことがありますが、その傍証の一つとして、この古地図を挙げておきます。

 

Sugamozu1

    ・ 「御府内沿革図書附図」(嘉永7年 1854年)に描かれた、巣鴨村内の谷端川とその支流です。書き込みは主要なもののみ、また道路は主要なもの、橋にかかわるものをピックアップしています。

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    ・ 大塚駅南口  南口広場のほぼ中央に、三つの池の真ん中のものがありました。その奥のビルの裏側は小高くなっていて、十羅刹(現天祖神社)が祀られています。 

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    ・ 大塚三業通り  南口広場の東南角で、谷端川を暗渠化して出来た大塚三業通りは、(宮仲公園通り改め)プラタナス通りと分かれます。  

 ところで、大塚駅周辺は巣鴨村に属し、それも「江戸名所図会」や「尾張屋切絵図」などによると、開村時の中心である本村でした。それが南に1~2kmは離れた王子道、現春日通り沿いに発達した町屋の名前の大塚が駅名となり、現行の行政区分では駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となるなど、駅名が歴史を無視してつけられた典型のような展開になっています。これに、本来の(小石川)大塚の方は、文京区大塚となって別個存続しており、また中山道沿いに発達した町屋、巣鴨町の方に巣鴨駅が設けられるなど、話をややこしくする要素が重なって、今や、大塚駅の周辺が巣鴨本村だったといっても、ピンときません。

 


大塚駅前

2019-06-12 06:32:38 | 谷端川・小石川3

 空蝉橋下に戻り、宮仲公園通りを先に進みます。間もなく大塚駅の北口前です。大塚駅の開業は明治36年(1903年)、日本鉄道の池袋・田端間が開通した際、両隣の池袋、巣鴨とともに開業しました。その北口前で都電荒川線と交差します。こちらは明治44年、王子電気軌道として開通しました。荒川線の先で例の王子道と交わり、さらにJR線を越えて大塚駅の南側に出るまでです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 空蝉橋下から300m強で大塚駅北口前に差し掛かります。  

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    2. 都電荒川線と交差します。遮断機があるわけではなく、都電のほうが信号待ちをしていることもある交差点です。  

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    3. 王子道を越えます。ここには藤橋が架かっていました。このまま800mほど左手に行くと、巣鴨庚申塚です。

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    4. 王子道を越えたあと、右手の植込みのところを斜めに横切り、ガード下に向かいます。

字新田2

2019-06-11 06:01:45 | 谷端川・小石川3

 蛇子橋(寂法橋)で合流する水路を追っての二回目です。合流地点では都電荒川線と重なっていた谷筋ですが、旧中山道と交差する先端部分は、荒川線の東側にズレています。そこで今回は、ズレたところから旧中山道にかけて、谷筋にある路地をさかのぼりますが、水路跡かは不明なのでいつもの青点線は書き込んでいません。なおタイトルの新田は巣鴨村大字巣鴨の字で、谷端川左岸から旧中山道までがその範囲でした。「新編武蔵風土記稿」によると、慶長寛永頃開拓されたところで、小名としては上、中、下の新田が収録されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 巣鴨新田駅と庚申塚駅の中ほどの都電荒川線です。左カーブの線路と分かれ右手に向かいます。 

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    2. 荒川線と王子道の間にそれらしい路地があります。 

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    3. ここはクランクです。ただ、地図類で未確認なため青点線は書き込んでいません。

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    4. 旧中山道に出たところです。庚申塚まで数十メートルで、「是から石橋迄廿六間」とも付合します。

 <庚申塚>  「庚申塚 中仙道の東側にあり、碑に明暦三年三月吉祥日と鐫れり、当所は中仙道の建場なれは庚申塚の名高くして此辺地名の如く土人唱へり」(「新編武蔵風土記稿」) 「遊歴雑記」によると当地には元々、文亀2年(1502年)建立の庚申塔が祀られていました。それが明暦3年(1657年)の大火後、近隣から集まった復興資材が道沿いにあふれ、その一部が倒れたはずみに石碑が粉々になってしまいました。そのため今の庚申塚を再建し、文亀二年の碑をその下に埋めたようです。(「江戸名所図会 / 巣鴨庚申塚」は→ こちらです。右端の石碑が庚申塔、中央の道標には「王子稲荷大明神」とあり、王子道の行く先を示しています。)

 


字新田

2019-06-10 06:54:47 | 谷端川・小石川3

 蛇子橋(寂法橋)の手前で、左岸から合流する水路がありました。下掲「段彩陰影図」の上端で、都電荒川線と重なる谷筋にかかわるもので、→ 「沿革図書附図」には、旧中山道と王子道の交差する庚申塚付近を先端に、回し堀のところで合流する水路が描かれています。ただ、明治末の「郵便地図」をふくめ、明治以降の地図で描いたものは未見で、また都電荒川線と重なっていることもあり、流路を正確にたどることは困難です。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 谷端川3」  オレンジ線は区境で、上端の北区、右下の文京区を除くと大半は豊島区で、そのほとんどが旧巣鴨村に属していました。

 「沿革図書附図」以外にもこの水路を示唆するものとして、→ 「巣鴨村絵図」があります。旧中山道と大塚道(王子道)の交差する左隣に、橋が描かれ、十字路には「是から石橋迄廿六間」との書き込みもあります。それともう一つ、寛政元年(1789年)から2年にかけて、一橋家小石川屋敷への千川上水引水が企画され、関係図面が「千川家文書」(西福寺所有)に残されていますが、→ その一つには、庚申塚隣で中山道を横切る「有来下水吐」が描かれています。

 

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    ・ 都電荒川線  巣鴨新田駅の先で右カーブ、ここからしばらく谷筋と線路敷が重なります。なお、手前の道路を左手に向かうと上の橋の架かっていたところに出ます。 

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    ・ 庚申塚交差点  正面が→ 庚申塚、アーケードの通りが旧中山道です。交差しているのも古道で、小石川から大塚、巣鴨を経由、王子へと至る王子道です。 

宮仲公園通り2

2019-06-08 06:12:42 | 谷端川・小石川3

 宮仲公園通りを大塚駅方面に向かいます。北大塚3丁目交差点から200mほどのところに、空蝉橋下交差点がありますが、その手前に巣鴨村内の三番目の橋が架かっていました。おそらく「新編武蔵風土記稿」の寂法橋、「東京府志料」の真法橋で、明治以降は蛇下橋と呼ばれたものです。真法や蛇下の名前の由来は不明ですが、寂法(しゃくほう)は江戸時代の巣鴨村の小名で、「新編武蔵風土記稿」にも収録されています。なお、交差点名となっている空蝉橋は、谷端川とは関係なく、南側を走るJR線をまたぐ橋です。明治36年(1903年)に、当時の日本鉄道山手線池袋・田端間が開通した際、切通しの上に架橋されました。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」と「同 / 王子」を合成したものです。宮仲公園通りなどをグレーで重ねています。 

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    ・ 宮仲公園通り   空蝉橋下の三叉路手前で、斜めに交差する道に、蛇子橋は架かっていました。左岸には水車用の回し堀があり、また、それとは別に合流する小水路もありました。 

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    ・ 空蝉橋下交差点  右岸の空蝉橋方向のショットです。空蝉(うつせみ)の名前からは、ロマンチックな由来を連想させますが、実際には近くの松の木にセミの抜け殻があったからだそうです。

 <巣鴨村の水車>  上掲「地形図」の回し堀と水車は→ 「東京近傍図」にも描かれています。「豊島区史 資料編四」(昭和56年)には、明治20年(1887年)に提出された、この水車の「営業継年期幷器械変更願」が収録されています。「千川上水東添支川水路ニ於テ従来許可ノモノ」で、明治15年より営業してきたが、さらに延長を願い出る趣旨で、水車の規模は「径輪弐丈壱尺 杵弐拾七本 臼弐拾七柄 水堰八尺四寸五分」となっています。これとは別に、藤橋近くに水車を新設するための、明治28年提出の「水車設立願」も収録され、上記水車業者の同意書も添付されていますが、増水の際の藤橋損壊等を恐れた周辺地主の反対によって不認可となりました。

 


宮仲公園通り

2019-06-07 06:11:02 | 谷端川・小石川3

 谷端川跡の通りに戻ります。それらしくクネッた区間が200mほど続いた後、宮仲公園通りに合流、左折して東に向きを転じ、大塚駅方面へと向かいます。宮仲公園通りは、明治通り・富坂下を結ぶ都道436号線の一部で、大塚駅南口交差点でプラタナス通りに、千石3丁目交差点で千川通りへと連続しています。谷端川を暗渠化した通りをさらに拡幅、整備して、昭和10年代に開通しました。永く癌研通りと呼ばれていましたが、同研究所の有明への移転に伴い、宮仲公園通りへと改称しました。宮仲は明治22年(1889年)に発足した巣鴨村大字巣鴨の字で、区域内に天祖神社が祀られており、同神社と関わる名前なのでしょうが、仲の方はよく分かりません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」と「同 / 早稲田」の合成で、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 谷端川跡の通りに戻ります。左手マンションの植込みに「谷端川跡」の解説プレートが掲示されています。  

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    2. 巣鴨村内では上流から二番目の橋が架かっていました。江戸時代の名前は不明ですが、明治以降は、字名から宮仲橋となったものです。  

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    3. 北大塚三丁目交差点で左折、宮仲公園通りに合流します。

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    4. 元は左右に大きく蛇行していたところで、谷端川の暗渠化を経て、昭和10年代に現行のようになりました。

村境の水路2

2019-06-06 06:36:54 | 谷端川・小石川3

 明治通りとほぼ並行する水路をさかのぼっての二回目です。途中左折して通りから離れ、さらに200mほど進みます。現在たどることのできる起点は、山手線の上に架かる西巣鴨橋の北西にあり、これは明治末の「郵便地図」の描くものと一致します。ただ、「地形図」などで読み取れる谷筋は、山手線を越えています。明治36年(1903年)に、池袋・田端間が開通しましたが、→ 「段彩陰影図」で見るように、この区間を切通しているため、その際、水路を分断したのかもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 引き続き明治通りと並行する通りです。右写真は右岸からのショットで、奥が明治通りです。

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    2. 途中左カーブで東南に向きを転じ、明治通りを離れます。

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    3.  水路跡らしい微妙なクネリを残す区間です。 

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    4. 路地は抜けますが、水路跡はなおも続きます。

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    5. 山手線に突き当たります。右写真正面の西巣鴨橋下で谷筋は山手線を越えています。

村境の水路

2019-06-05 06:27:16 | 谷端川・小石川3

 巣鴨村に入って、最初に架かっていた橋のやや手前で、右岸から合流する小水路がありました。 → 「段彩陰影図」の左上隅で、明治通りに突き当たり、くの字に折れ曲がる谷筋がありますが、これにかかわるもので、→ 「沿革図書附図」には先端の池と共に描かれています。なお、右岸のほうは、鎌倉街道と目され、現在は明治通りと重なる古道が、池袋村や新田堀之内村との境になっていました。ただ、明治に入り同じ巣鴨村(のち西巣鴨町)に属し、今では明治通りの左右とも、豊島区上池袋(1~4丁目)になっているため、かっての村境の意味は失われています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    2. 都道436号線(宮仲公園通り)を越えます。右手の明治通りを起点に、左手はプラタナス通りを経て千川通りへと連続します。  

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    3. 左カーブの先の左手には、水路単独と思われる路地が顔をのぞかせています。 

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    4. 狭い路地は上池袋第一児童館、上池袋中央公園前を通ります。 

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    5. 右手の建物一つ挟んで、明治通りとほとんど接します。

村境

2019-06-04 06:22:52 | 谷端川・小石川3

 明治通りを越え、旧巣鴨村に入ります。正確にいうと、右岸は明治通りですぐに巣鴨村ですが、左岸は30mほどのところにある路地が、滝野川、巣鴨の村境になっていました。→ 「巣鴨村絵図」でもそうなっていて、明治に入ると下掲「地形図」のように、板橋町と巣鴨村の境へと引き継がれ、現在でも北区と豊島区の区境になっています。鎌倉街道とも目される古道から、ここだけずれている理由はよく分かりません。なお、「巣鴨村絵図」にも描かれているように、この個所の田圃は特に北側に広がっていますが、これは古道沿いに流れる千川上水の巣鴨村分水や、上水本体の流末によって灌漑されていたためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」と「同 / 早稲田」の合成で、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 明治通りを越えて30mほどのところにある路地が左手北区、右手豊島区の境です。  

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    2. ここから先は両岸とも巣鴨村に属し、現在は共に豊島区です。   

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    3. 水路跡らしい微妙な蛇行の残る区間が続きます。

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    4. 上の橋跡です。やや手前に右岸からの合流がありましたが、次回からのテーマです。

巣鴨村用水

2019-06-03 06:53:03 | 谷端川・小石川3

 「谷端(ヤバタ)川 北の方瀧野川村より入、南の方小石川村に達す、是小石川の上流也、幅三間或は六間」(「御府内備考」) 「御府内備考」には収録されていませんが、雑司ヶ谷村境の字水久保には水窪川の水源が、西ヶ原、上駒込村境には谷戸川(藍染川)の水源があり、各々若干の田圃の灌漑用水となっていました。ただ、明治11年(1878年)の「東京府村誌」に、「灌漑ノ利ナク時々旱暵ニ苦ム」とあるように、これら用水への依存度はごく低いものでした。同「村誌」の数字では水田面積6町5段余、これに対し畑は82町7段余と、畑作中心だったことがうかがえます。 

 

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    ・ 「巣鴨村絵図」  「豊島区地域地図」第7集(平成21年 豊島区立郷土資料館)に収録された、享和元年(1801年)作成の「巣鴨村絵図」(東京都公文書館蔵)が元で、田用水を強調、道路などは主要なものだけをピックアップしました。 

 巣鴨村にかかわる谷端川の橋として、「御府内備考」は「橋四を架す、一は板橋にて王子道にあり藤橋と云長五間、其余は共に土橋にて上橋、寂法橋、東福寺橋の唱あり、何れも長四間」と書いています。一方、「巣鴨村絵図」に描かれているのは、滝野川村境のものを除くと七個ありますが、藤橋の一つ上流のものは、この「村絵図」にしかありません。他の六個は→ 「東京近傍図」とも共通で、うち藤橋と東福寺前にある東福寺橋は特定が容易です。

 

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    ・ 谷端川跡(都道436号)  大塚駅前で都電荒川線と交差、その先の信号が王子道で、藤橋が架かっていたところです。なお、王子道を左折すると、800mほどで旧中山道庚申塚に出ます。

 あと、藤橋と東福寺橋の間の橋は、「東京府志料」の橋梁リストに「熊野橋 同村土橋長四間幅四尺 橋傍ニ熊野社アルニ由テ名トス」とあります。同リストには上流から新土橋、仲野橋、真法橋、藤橋、熊野橋、松下橋がリストアップされ、真法橋の旧名を寂法橋、松下橋の旧名を東福寺橋としているので、「村絵図」の上流から橋名の大半を割り振ることができます。なお、明治末から大正、昭和にかけて定着していた橋名は、上流から上の橋、(中の橋)、宮仲橋、(葭山橋)、蛇子橋、藤橋、熊野窪橋、東福寺橋で、かっこ内は大正時代の架橋です。