神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

平川2

2019-08-05 06:47:49 | 平川・外堀1

 日比谷入江に注いでいた平川が、現在のように、隅田川に向かうようになったのは、大きく二段階に分けられる付替えによってでした。最初の付替えの結果、平川の最下流部分は江戸城の堀となって切り離され、本流は江戸前島の微高地を横切り、ほぼ現在の日本橋川の流路を取って、隅田川に注ぎます。太田道灌や北条氏による150年にわたる江戸経営のどこかでなのか、それとも天正18年(1590年)の家康入国後短期間でなされたのか、はたまた人為的なものではないのか、文献的な裏付けに乏しく諸説のあるところですが、少なくとも、慶長8年(1603年)の幕府成立前後には現在の日本橋川の流路になっています。

 

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    ・ 「慶長江戸図」  慶長7年(1602年)と同13年の江戸城と内曲輪の様子を重ねました。濃いブルーが慶長7年の「別本慶長江戸図」と呼ばれるもので、重ねるために原図をゆがめています。(書き込みはかっこなしが慶長7年、ありが慶長13年のものです。)

 内曲輪以外は描かれておらず、さらに(図中白であらわした)一部が失われているため、全体像はよくわからないところもありますが、平川の付替えは「別本慶長江戸図」の時点でほぼ完成していて、あとは日比谷入江の埋め立てを残すのみとなっています。一般に同入江の埋め立ては慶長8年頃とされていますが、「東京市史稿」のように、「落穂集追加」(享保12年 1727年)を引用、文禄元年(1592年)の西の丸増築時に、その残土を利用して埋め立てたとの説もあり、以降埋立てが進行し、「別本慶長江戸図」のようになったのかもしれません。

 

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    ・ 平川門と平川橋  「別本慶長江戸図」に「平川ト云フ所」とあるように、この付近にあった平川や平川村から、その名がつけられました。

 二段階目の付替えは、後半のテーマなので、簡単に触れるにとどめますが、本郷台の先端にあたる神田山を開削し、現在の神田川の流路をとるもので、こちらは元和年間(1615~24年)に最初の工事が行われています。その後、現在の日本橋川と重なる最初の付替え部分は、船河原橋から堀留橋までが埋め立てられ、こうして、神田川から切り離された元の平川は、江戸城の堀や運河として機能することになります。また、小石川大沼から日比谷入江にかけての低地は、平川の流れから完全に解放され、武家地として宅地造成されました。小川町の武家屋敷や、馬場先門前のいわゆる大名小路のことです。