神田川水系の最下流は、今でこそ神田川と日本橋川(及び亀島川)に分かれ、共に東流して隅田川に注いでいますが、本来は飯田橋付近から南下し、大手町と東京駅の間まで食い込む日比谷入江に流れ込んでいました。下掲「段彩陰影図」で、麹町台地と本郷台地、江戸前島に挟まれた低地が、平川と称されるその流路です。それが江戸城築城と江戸市街形成過程で、平川本流は大手堀や外堀の一部に転用され、余水は東流して隅田川に注ぐ、現在の形に付替えられました。
- ・ 「段彩陰影図 / 平川・外堀1」(1/18000) オレンジは区境で大半が千代田区です。上部の二つの矢印(平川上流と小石川)の先が小石川大沼、下部の矢印(平川下流)の先が日比谷入江です。
- ・ 船河原橋 神田川は飯田橋駅前で左折、東に向かいますが、平川の本来の流路はやや右手にズレ、貨物ターミナル跡地に建つビル群からその先の神田神保町方面へ向かっていました。
- ・ 神保町交差点 白山通りと靖国通りの交差点です。一帯は小石川大沼と呼ばれる低湿地で、江戸初期に造成され小川町という小身旗本の屋敷地になりました。現在は都内屈指の書店街です。
長禄年間(1457~61年)、太田道灌の江戸城築城当時とされる絵図があります。実際には、江戸時代中頃の知識人による、家康入国以前の江戸の再現図、ないし想像図との見方が有力ですが、それはともかく、→ 「長禄年間江戸図」の描く神田川は、小石川などと共に、いったん小石川大沼と思われる池に注ぎ、流れ出て海に向っています。ただ、江戸城の北を東流していますが、道潅の江戸城築城当時、平川が城の東を南下していたことは、文献的な裏付けがあり、道灌が江戸城内の居所、静勝軒に掲げた漢詩「江亭記」の、「城之東畔有河 其流曲折而南入海」「東望則平川縹緲兮」といった一節で、「江戸名所図会」にも引用されています。