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広島町歩き

2013-04-08 | 日記

暖かくなりました。午前中、振り込み、納税などの用事を片付け、午後から所用で外出。暖かいのでずっと歩いて行くことにしました。

 

正門跡。マンションの付近に第一食堂があった。思い出した、8日は入学式だった。平和公園にあった公会堂で全体の入学式。午後はこちらへ戻ってオリエンテーション各種。46年前は大雨だった。

向かい側の日赤。いつもこの道を通って通学。

原爆病院はこちらが入り口だった。

橋を渡って。昆布茶の会社と金物の卸屋は健在。橋も当時のまま。只今干潮。

マンションの左付近に四年間暮らしていた。

元安川と明治橋。川土手はきれいに整備。

鬱金桜うこんざくらがもう咲き始めていた。

私の中の三大桜の一つ。黄、ベージュ、グレー、渋いピンクの色の組み合わせが時間とともに変わっていくのが見どころ。

他の二つは広島江波山桜と御衣黄です。ギョイコウもそろそろ咲き始めるかも。

よく買い物した商店街。呉服屋、洋服屋が多かったが、今は食べ物屋さんが増えた。

当時は二階もあったけど、最近行ってないので不明。モーニングサービス発祥の店らしい。

銀行横で。生きているような少女の顔。見に行くときはやはり着古した木綿の着物?というのは持ってない私。

電気自動車

市役所前。被爆直後の写真をモニュメントとして設置しています。

あるお店の前で。達筆。

暖かい日でけっこうでした。夕方、お姑様に今年度のごみ収集のカレンダーなどを届けてから、少し話する。

 

 

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「日本の軍隊」-兵士たちの近代史- 吉田裕

2013-04-08 | 読書

徳佐八幡宮の境内には産直市が開かれていました。特産の葉わさびを一把購入、湯通しして軽くもみ、出汁醤油につけていただきました。ピリッとして、春の味覚。


明治初めに創設された日本の軍隊が、太平洋戦争の敗戦で消滅するまでをたどった、近代日本軍の通史。

明治初め、洋食、洋服、靴、時計といったものが軍隊を通じて広まっていったこと。過酷な労働の農民層には三度の食事と決まった時間の睡眠が保障される軍隊生活はむしろ快適だったことから始まり、農家の二、三男など、上級学校へ行けず、家を継げないものが軍隊の中で出世したいと願う仕組み、とはいえ、士官は上層階級の学歴エリートにしか道が開かれてないことなど分かりやすくまとめてある。

第一次世界大戦のあと日本軍は装備の近代化が遅れ、大陸で、太平洋地域で戦線が拡大するにしたがって次第にその矛盾が明らかになり破滅へと突き進んでいく。1941年以後の戦死者230万のうち半数は広義の餓死者、そのほかに海没と特攻死・・・日本の、いや世界の歴史においても短い期間に夥しい数の青年が、国を離れ、親兄弟にみとられることなく非業の死を遂げるということはなかったはず。狂気と破滅の時代。乏しい資源を精神力でカバーするしかなかった日本。

戦後長い間たち、ともすれば戦争体験も風化し、体験者もほとんどいなくなったけれど、このことは何度でも思い返さなければならないと思う。

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