美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

父や母を想い生きて還る者、還らぬ者の間は紙一重もない(火野葦平)

2024年08月14日 | 瓶詰の古本

 ビルマから復員してきた高山三郎の歓迎会に、私もよばれた。私は一升びんと魚をさげていつた。
 うすぎたない松野町の陋屋は、その夜は、よろこびにかがやいて、かつてない豪奢なうたげの準備がすすめられてゐた。
「戦地では、お父はんとお母はんのことが忘れられんでな」
 復員軍人に特有な、うれしげな、さびしげな、当惑したやうな、ほうとした表情で、父に似た細面の三郎は、ぽつりぽつりと話すのであつた。
「激戦のときにや、なんぺんでも、死ぬ目に会うた。そんなときにや、持つとつたお父はんとお母はんの写真のことがすぐ気になつて、ポケツトから汗でよごれた写真をとりだして、地に埋めた。そんあとで、どうやら命びろひすると、また惜しうなつて、写真を掘りだした。そんなことが三四度あつた。そんたびによごれてな……、」
 こんなになつたと、大切にしてゐた一枚の写真を出した。
「ほう、そげえ、心配したかのう」
 タキは涙ぐんできいた。東作も胸がせまり、自分にはこんな悪い女房でも、やつぱり息子にとつては大切な母親なのだと、すばらしい発見をしたやうな顔をした。
「もうひとつ、お父はんが、出征のときとくべつに打つてくれた小刀、大事にもつとつたが、これは切れものぢやから、取られた」
 このごろ、また馬車を一台買つたといふ西作がきて、腐つたやうな赤鼻をなでなで、
「今夜は腰がぬけるまで飲まうで、南方に行つたもんな、たいそう酒がつようなつとるちゆうから、久かたぶりで太刀うちぢや」
 甥の肩をどんとたたき、腹をゆすつてわらつた。
 三郎はしづかなまなざしで、私の方をむいて、こんな話をした。
「博多からあがつたんです。コレラがはやつとるとかで、四日も沖にとめられて、ぢれつたかつたんですが、やつとあがれました。大濱の築港にあがると、あすこから呉服町の方にまつすぐに広い鋪装道路がつづいてゐるでせう。あのひろびろとした白い道路がたいへん美しくみえて、ああやつと日本へかへつたと、涙がでました。片倉ビルの高い建物を目標にして、駅の方に歩いてゆきました。復員の姿はだれもおなじで、乞食のやうな恰好です。暑い陽が照つてゐました。すると、私はそのひろい道路に向ふむきにしやがんで、なにかをひろつてゐる十くらゐの男の子にきづいたのです。なにをしとるかとききますと、どうせ、戦災孤兒かなんかでせう。可愛いい顔をあげて、もつたいないから米をひろつてゐるのだといひます。気がつきますと、左手に米粒をためてゐます。みると、その子供のしやがんでゐる足もとから、ずつと片倉ビルの方へ、一直線に、白い紐をひつぱつたやうに、米粒がならんでつづいてゐます。きつと、トラックか荷車かなんかが、こぼして行つたんですね。それを子供が一粒づつひろつてゐるんです。それをみると、私はまた鼻がつんとしてきましたが、なにか重かつた足どりが急にかるくなつたやうな気がしました」
 夏の日の鋪道を一直線につづいてゐる白い米の線、それをこつこつとひろふ孤兒、それをぢつと見てたたずんでゐる復員の兵隊、私の眼のまへに、その情景がはつきりとうかび、この兵隊が結婚することにきまつたといふ、久留米の在にゐるといふ先代肥後守の孫娘のことを思つた。

(『小刀肥後守』 火野葦平)

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