美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

自分自身を小説に投影するを良しとする作家は、ドン・キホーテやサンチョ・パンサのように滑稽視される運命を尊しとする(森田草平)

2024年08月03日 | 瓶詰の古本

 滑稽物に重味を附けるために、よくあれは単なる滑稽を主眼としたものでない、世道人心の日に頽廃して行くのを諷刺したものであると云ふやうなことが云はれる。『ドン・キホーテ』も昔からよく諷刺物だと云はれるが、では何を諷刺してゐるかと聞き直して見ると返辞がない。尤も、捜して見れば、この作の中にも当時の風俗や、その外世道人心の軽浮を諷刺したやうな所がないでもない。が、それは部分的であつて、それだからこの作全体が諷刺だとは何うしても云はれない。私は単なる滑稽物だと思つてゐる。そして、滑稽物で差支へないと思つてゐる。単なる悲劇が悲劇で差支へないと同じやうに、単なる滑稽物で差支へる道理がない。要はその滑稽の深いか浅いかである。私は『吾輩は猫である』を単なる滑稽物であると考へてゐると同じやうに、『ドン・キホーテ』も単なる滑稽物だと考へてゐる。そして、『吾輩は猫である』が涙で書かれた滑稽物であると同じやうに、『ドン・キホーテ』も涙で書かれた滑稽物だと考へてゐる。思ふに、セルヷンテスはドン・キホーテに依つて自分で自分を嘲つてゐるのである。自分で自分を鞭打つてゐるのである。成程、著者は時としてあまりに主人公を辛い目に遭はせてゐる、あまりに無慈悲に取扱つてゐる。しかも著者が全篇を通じてこの主人公に同情してゐなかつたとは何うしても考へられない。最後にドン・キホーテを正気に返らせて死なせる所など、惻々として人を動かすものがあるではないか。想ふにセルヷンテス自身も現世の名誉に憧れて土耳古の遠征に従軍して、傷ついて捕虜の身になるなど、千辛万苦を経て、何の報いられる所もなく本国に帰つて来るあたり、一生を顧て自分ながらそのドン・キホーテ振りに苦笑を禁じ得ないものがあると共に、暗然として漫ろに涙を催さゞるを得なかつたのではあるまいか。
 篇中の真面目な恋物語は、その牧歌的叙情詩と共に、概して面白くなかつた。これは一つは訳者が原詩の妙味を解し得ないせゐもあるかも知れないが、兎に角長たらしいばかりで面白くなかつた。訳者に面白くない位だから読者には尚更面白くなからう。が、そんな所を度外しても、『ドン・キホーテ』は永遠に生命のある珍書である、傑作である。
  昭 和 三 年 八 月
                         森 田 草 平しるす

(『ドン・キホーテについて』 森田草平)

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