美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

雑本の価値も古本価値の一つに数えたい(戸坂潤)

2023年11月05日 | 瓶詰の古本

   散歩の序でに、小さな古本屋で、ルナンの『科學の將來』といふ小さなうすぎたない本を見つけた。三十銭で買つた。『ヤソ傳』のエルネスト・ルナンが一八四八年頃、二十六七歳の若さで書いた本である。翻訳者は西宮藤朝氏で、氏はたしかブートルーの『自然法則の偶然性』を訳出してゐたと思ふ。この訳は全体の約半分を含むもので大正十五年に資文堂といふ出版屋から出てゐる。叢書形式の内の一冊かも知れない。さうすれば半分だけを訳して出すといふことも、分量の上から云つて止むを得ないことだつたかも知れない。
   併しそのために、何と云つても出版物としての価値を損ずること甚だしいのは事実だ。この原著自身は何も隅から隅まで眼を通さなければならぬ程大事な内容で充満してゐるわけではなく、まだ幾分に生まな常識のかき合はせに過ぎぬと思はれる部分も多いが、それにしても訳者も云つてゐる通り、ルナンの其後の仕事の方針を闡明したものとして、大いに価値のある文献なのだがそれが半分では、全く雑本としての価値しかない。かう古くなつて誰も手にとつても見ないやうになると、さういふ点が特に目に立つ。惜しいことだ。
   同じ頃でた本で山田吉彦氏訳のリボオ『變態心理學』といふのがある。之はリボオの有名な『記憶の疾患』『意志の疾患』『人格の疾患』の独立の三著を、三部作であるが故に、一冊にして訳出したものだ。かういふ加工だけですでに、古本価値のあるものだ。恐らくあまり人の読まないだらうこの訳書を、私は割合大事に、蔵つておいてゐる。之は独り原著が優秀であるばかりではない。
   序にルナンは文献学と哲学とを比較して、文献学に二次的な位置を与へてゐる。之は私にとつては興味と同情とに価する点である。又訳者がフィロロジーを文献学と訳した一つの小さな見識にも敬意を払つていゝ。科学的精神が問題になる折柄、通読しても、無駄にはならぬやうだ。

(「讀書法」 戸坂潤)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 過去を変えられる額縁を持ち... | トップ | 作家はその作品によって幸福... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

瓶詰の古本」カテゴリの最新記事