五・一五事件の後、内閣組織者を推薦したものは矢張元老西園寺であつた。彼れも最早第二次護憲運動当時の元老攻撃を記臆してゐなかつたか、或は記臆してゐても、政党恐るヽに足らずと思つたか何れにしてもかれは最早政党内閣に執着せず、又、暗殺に依つて政治の性格をも変化せしめないと云ふ過去の伝統に執着しなかつた。この伝統といふのは、前に原敬が政友会内閣の首相として、東京駅で刺された後に、西園寺が後任政友会総裁の高橋是清を推薦したことである。これが一つの先例になつてゐた。然るに西園寺公は五・一五事件の意義を重大視して、政党内閣を推薦することを断念し、齋藤實を首班とする官僚内閣を推薦した。齋藤内閣が帝國人絹事件の余波を受けて辞職したとき、西園寺は再び海軍大将岡田啓介を首班にする官僚内閣を推薦した。それから二・二六事件が起つた。その事件関係者はそれぞれ所罰されたのであるが、この事件に依つて軍部の政治的威力は増大した。即ち二・二六事件直後に於て廣田弘毅が内閣を組織せんとしたとき陸軍はその閣員の顔振れに迄干渉した。廣田は先づ寺内壽一大将に陸軍大臣ならんことを求め、寺内はそれを承諾した。だが他の閣員の人選を終り、それが新聞に現はれたとき、寺内陸相候補はその閣員の詮衡に抗議を提出した。廣田が若しこの抗議を容れない場合には寺内自身が陸相たることを取消して、内閣が不成立になることは明白であつた。陸軍の反対は自由主義者的色彩のある下村宏を内閣に入れること、民政党員たる川崎卓吉に内務大臣の如き重要な椅子を与へること等に対してであつた。廣田は悉く陸軍の意見を容れ、一度決定した閣員の顔振れを変更して漸く内閣を組織することが出来た。廣田内閣は約一年間在職してゐたがその間に、軍部大臣を現役制にすると云ふ制度を復活した。これは内閣組織が出来るや否やの鍵を、軍部に渡したと同様な結果を生じてゐる。廣田内閣は又ドイツとの防共協定を結んだのである。それがそれ以後の日本の国際関係に重要なる影響を及ぼしたことは云ふ迄もない。そして最後に廣田内閣は陸軍と議会の衝突の間にはさまれて潰れた。即ち昭和十二年一月議会開会の劈頭に於て、濱田國松(政友會)が五・一五事件、二・二六事件を引用して陸軍の中に独裁政治をする思想があると云つたのに対し、寺内陸相はかヽる言論は陸軍を侮辱するものだと云つた。濱田は答へて、速記録を調べた上、若し自分に陸軍を侮辱する言葉があつたならば、自分は切腹する。もしなかつたら、君が切腹すべしと叫んだ。この衝突の結果として、寺内陸相は閣議に於て議会を解散すべしと主張した。廣田首相が決断を躊躇してゐた際、永野海軍大臣は政府と政党の間を調停し、政党からは政府に協力するといふ言質を取つて、一時は調停成功するかに見へた。然るに閣議が開かれると、寺内は依然議会解散を主張して譲らず、永野海相や政党出身大臣は解散に賛成せず、玆に内閣不統一の情勢が生じて、廣田内閣は潰れたのである。
(『政界十五年』 馬場恒吾)
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