美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

未だ証拠不十分なるものを信ぜ(しめ)んと欲する者が少なくないのは、その裏に卑しい胸算用があろうとなかろうと救われない禍事(野上俊夫)

2020年08月04日 | 瓶詰の古本

 実に今からして其の当時の事を回想すると恍として隔世の感が有る。有らゆる新聞紙は殆ど毎日千里眼に関する記事を以て紙面の大なる部分を充たし、所謂千里眼者の一挙一動は電信電話によりて報知せられ、或は此くの如き偉大たる能力を有するものは、従来世界に類なくして現在たゞ我が邦にのみあるが故に、正に是れ精神界の国宝なりと唱ふる学者さへ出で来つた。或る雑誌の如きは、現に日本に存する千里眼者二十余人の名簿及住所を列記したものあり、而かも其の中には、予自身が予の宅で実験して、其の能力なるものが全く無根なることを発見したる者の名さへ明に記してあつた。或は小学校の校長にして、自ら此の能力を信ずる熱心の余り、兒童にその話を聞かせたる為めに、多くの兒童が盛に千里眼の練習を始めるに至つて、その校長が監督官庁より注意を受けたなどいふ話もあり、或は某学校の生徒が試験問題を透視したことが伝へられたりした。
 殊に注意すべきことは、世間一般特に新聞紙の書き方は、多くは此の種の能力の存在を信ぜんと欲するものゝ如き態度であつた事である。即ち所謂千里眼の能力の存在するといふ積極的の証明も十分挙げられないに係らず、或る学者(多くは物理学者であつた)が此の能力を否定せんとし、或はその存在の証拠不十分なりと論じた場合に、頗る激しい筆鋒を以て之れを攻撃し、恰かもかゝる能力を否定することが罪悪でゞもあるかのやうに考へたものが多かつた。是れ即ち所謂宇宙に霊妙奇怪なる者ありと考へんとする人間の幼稚なる心情の根ざしが如何に深いかを示す一つの好適例として見ることが出来る。其後明治四十四年に入りて、千里眼の元祖たる御船千鶴子自殺し、能力の最も偉大なりと称せられたる長尾幾子病死して、千里眼界大に落莫の気味があるけれども、其後尚ほ此の事に関する論議は種々の方面にあらはれ、殊に前述の如く、此事は一般人心に深く根ざして居る迷信と密接なる関係を有して居るが為めに、多くの人は動もすれば未だ証拠不十分なるものを信ぜんと欲するものも少くない。而かも随分高等なる教育を受けたる人々の間にも之れを信ずる者も少なからずあるやうである。是れは果して喜ふべき現象であるか果た憂ふべき現象であるか。

(「叙述と迷信」 野上俊夫)

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