美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

現実と隔てる磨りガラスの向こうに怪異の世界を見透す小説家にとっては、心理遺伝や精神感応は普通に起こること(メリメ)

2024年05月11日 | 瓶詰の古本

 シュトラァレンハイム夫人にはヴィルヘルミィネという一人の義妹があった。その義妹は、ユリウス・フォン・カツエンエルレンボォゲンという、クライスト将軍の師団に義勇兵として属していた、ヴエストファレンの青年の許嫁(いいなずけ)だった。どうも野蛮な名前を沢山並べて恐縮であるが、又、不思議な話なんぞというものはとかく発音しにくいような名前を持った人達のところにばかり起りがちなものなのである。
 ユリウスは愛国心と哲学的精神とに富んだ、愉快な青年だった。戦場に出かける時、彼はヴィルヘルミィネに彼の肖像を与えた。ヴィルヘルミィネも彼に彼女の肖像を与えた。彼は彼女の肖像を何時もその胸につけていた。ドイツでは、そういう事をよくするのである。
 一八一三年九月十三日の事である。ヴィルヘルミィネはカッセルに在って、夕方の五時頃、客間で、彼女の母や義姉と一緒に編物をしていた。その為事(しごと)中も、自分の前の小さな為事机の上に許婚の肖像を置いて、それから片時も目を離さずにいた。突然、彼女は恐ろしい叫び声を発した。そして胸に手をあてたまま、気絶してしまった。皆は彼女を正気に返らせるために百方手を尽した。やっと彼女は口がきけるようになると、
 「ユリウスは死にました」と口走った。「ユリウスは戦死しました。」
 その肖像が目をつぶるのが彼女に見えた事、それと同時に彼女は恰も灼熱した鉄で胸を貫かれたような激痛を覚えた事を、彼女は断言した。その顔にありありと浮んでいる恐怖の情は彼女の言を証拠立てるには十分だった。
 皆で彼女の見たものが現実のものではない事、それをあまり重大にとるべきではない事を、彼女にわからせようとしたが無駄だった。かわいそうにその娘はどうにも慰められようが無かったのである。彼女は一晩中泣き明かし、そして翌日になると、あたかも彼女に予示せられた不幸が既に確められでもしたかのように、喪服を着けると言い出した。
 それから二日立ってから、ライプチッヒの激戦の便りがあった。ユリウスは許嫁に十三日午後三時の日付のある手紙を寄こしたのである。彼は手傷も負わずに、殊勲を立てて、ライプチッヒに入城したばかりだった。そしてその夜は司令部と一緒に、従ってあらゆる危険から遠ざかって、過ごす筈だと書いてあった。その安心させるような手紙もヴィルヘルミィネの心を鎮める事は出来なかった。彼女はそれが三時の日付になっているのに留意し、彼女の恋人は五時に戦死した事をどこまでも信じたのである。
 この不幸な娘は間違っていなかった。その後すぐ、ユリウスは伝令の役目を帯びて、四時半頃にライプチッヒを出たところ、市から四分の三マイルくらい離れた、エステル河の上方で、溝の中に待ち伏せていた敵の敗残兵によって射殺せられたという事が判明した。弾丸は彼の胸を射抜いて、ヴィルヘルミィネの肖像を壊したのであった。

(『マダマ・ルクレチア小路』 メリメ 堀辰雄譯)

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