千里眼のあつた明治四十二三年頃は、日本の物理学会では既に長岡半太郎博士が原子構造論で世界的に有名であり、化学界では鈴木梅太郎博士がヴィタミンBを発見されてゐた頃である。決して我が国の科学が未開の状態にあつたわけではない。千里眼のやうな事件は、その国の科学の進歩とは無関係に生じ得るものである。それは人心の焦燥と、無意識的ではあらうが不当な欲求との集積から生れ出る流行性の熱病である。そしてその防禦には、科学はそして大抵の学者も亦案外無力なものである。と言つてもそれは何も科学の価値を損ずるものでもなく、又学者の権威にさはることでもない。
それは科学とは場ちがひの問題なのである。唯かういふ場合に、優れた科学者の人間としての力が、その防圧に役立つことが多いといふことは言へるであらう。
千里眼に類似の事件は、其の後も数回あつた。そして今後も起り得る問題である。特に今次大戦下のやうな緊迫した国情の下では、一億の熱意の迸り出るところ、一つ舵を採り損ねると、どんな大規模な千里眼事件が発展しないとも限らない。そしてそれは為政者の力でも、大学者の力でも阻止出来ない場合も起り得るといふことは、歴史の示す通りである。
(『千里眼其の他』 中谷宇吉郎)