私は講談としての講談を是非する玄人ではない。専門家ではないが、然し伯山を是非する事が天下の法度でない限り、自由自儘の筈。
伯山の陣容は魚鱗鶴翼の備へを立てて、大道をひた押しに押して行くものではない。奇兵を以て敵の虚を突かうとするのだ。覆面黒装束の曲者が、木の下闇に紛れて峠の峴道から現はれたと見れば、抜く手も見せずに斬つて落す。三人五人、サツと吹く凄風に乗じてか曲者の姿は早闇に紛れて失せた。
といふ物凄さである。而して勝算既に彼の掌中にありといふ者、更に其斬味たるやだ、大身の槍ではなく又、正宗や村正などの太刀でもない。ジりジりと油煎りにした青竹の槍なんだ。其斬口たるや、傷口を見えずにじつとりと血が流れるのではなく、ザツクリと破れて口を開け、ドクドクと迸しる血潮。
それが何時までも何時までも耳から目に浮んで来て忘れやうとしても忘れられない。其所に伯山の妙味があるといふ訳。
余りに横道が多くて何を聞いたのだか判らない様な、そして、肝心の本筋だけが明晩の前講になるといふ先生達が沢山あるが、吾が伯山に限つてそんな馬鹿な事はない。一席で客を満足させる、筋はたつぷり進めて行く、だから誰れだつて安価い安価いと嬉しがらずには居ないのだ。
伯山の人気は客に依つて作られたのではない。伯山自身の精力と勉強による正当の酬ゐなんだ之れあるが為めに今日の伯山たらしめたのであるが、更に彼の凄じい啖火と軽妙な滑稽がある。正しく彼に取つての鬼に金棒だ。
(「世相百態 明治秘話」 石田龍藏)