美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百六十二)

2018年10月17日 | 偽書物の話

   断るまでもなく、水鶏氏相手に偽書物との親和度を競おうなどと常軌を逸する狂焔に身を焦がしているのではない。水鶏氏の発言を振り返って、これまで氏が偽書物と昵懇の間柄にあると自ら認定している節は露ほども窺えない。黒い本は、表向き無頓着に水鶏氏の自心とその自心を触れ合わせ、文字を介する書物一般と隔たる方途でもって別世界に縦横する歓心を満たした。いわば、新次元に位する別世界への導き手であるが、愛憎の対象となるものではない。
   それに比べ、啻に訴えずにおれなかった現様と仮象との間で進行して止まらない容貌の漸近は、私にとって画然たる形姿を伴わぬ、なにがしかの啓示の前端と印象されている。西国の古本屋で大きな黒い本の挿し絵に気を惹かれ、女と呟き交わした畳の帳場が目に浮かぶ。黒い本の解せない文字の面妖さはさることながら、水鶏氏らしくない軽い狼狽に打ち返されて、あの時早速に眸へ飛び込んだ絵像の手際良さが、改めて意味ありげに燻り立って来る。だからだろうか、箍の外れた私の臆想の中では、水鶏氏は水鶏氏なり、黒い本と交わした感応の流路にまだ隠された川床の筋目があるのなら、喫緊にそれを確かめずにはいられない焦思に駆られて、せっかちに歩き回っている。そして現実の部屋の中では、やっぱり水鶏氏は椅子に座り沈思の姿勢を崩さないでいる。

 

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