「人間は何を為し得るか。一個の人間は何を為し得るか」といふニイチェの問題は、ドストイエフスキーの心の暗室に於て、極度まで実験されたものらしい。「超人」哲学の主唱者は、「人間が他のものになり得るといふこと、なほそれ以上のものになり得るといふこと、なり得るにも拘はらず完成に達せんと努力することなく、卑劣にも最初の泊りで身を休めた」と、人類史を批判してゐるが、このニイチェは昨年何処からか発刊された、彼の発狂後の日記によると、女に関したことばかりを頻りに書散(かきちらし)してゐたさうである。女から超然としてゐた筈のニイチェにしても、その意識の底には、女性が巣を張つてゐたのであらう。真の芸術品にして悪魔の協力のないものはない。「女子と小人は養ひ難し」と孔子の云つてゐたのは、孔子自身が女子と小人に苦しめられてゐたことの告白であらうが、この女子と小人もドストイエフスキーの創作的火炉に投ぜられると、純金の素質を現はすやうになつた。我々が有るがまゝに見てゐる人生は謔の世界で、天才に具つてゐる「暗室」で濾過されたものによつて、純真の人生を感得することが出来るといふことになるのだ。
ジイドの文学論を読むと、論旨はいつも根本の問題に触れてゐるやうに思はれるが、私自身にはドストイエフスキーの創作的境地は手の届かない所にあるやうに感ぜられる。
(「文學修業」 正宗白鳥)