美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百六十一)

2018年10月10日 | 偽書物の話

   果たして私の容面が挿し絵に乗り移っているかについて、水鶏氏が熱を入れて抓もうとしないのは、話頭が神奥なクレバスへ雪崩れるのが忌まわしかったせいではない。挿し絵の存在に全く気づかなかった原因が意識の裂隙によるのか、それとも何ものかの狡知な意図によるのかといった埒のない迷想は苛烈に泡立ち、黒い本が差し挟んだ絵頁をすっかり見過ごしているかたわらで、生き生きとした別世界を精彩に見聞きしたのであれば、その別世界の真体を闡明しないまま自心を引き合いに世界の実在性を語るのは、今や水鶏氏にとって忍び難い苦痛になっていると察せられる。
   盛んに顛動する水鶏氏の琴線によって、絵像に現われる変容に浮足立った能天気の精神が取り敢えず隅っこへ押しやられるのは当然の成行きであるが、いざ流れがそうなってみると、頭を納得させる理路の力に見合った勢いの反作用が生まれ、絵図から与えられた心象へのこだわりが沸々と湧き上がって内心を満たし、それを私が快く受け容れているのが明瞭に実感されるのである。未だ根底的に掴み切れていないにせよ、どうやら私に自心らしき核心があるとしたら、偽書物にぞっこん魅入られている本心をひた隠し、手を替え品を替え黒い本が打ち出す別世界の複層や現世界の実在性は水鶏氏独得の仮説の岩戸へ封じたから安泰と自己瞞着していて、そもやいつまで飄逸を装っていられるだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする