晴天に恵まれた5日に桜の開花情報を確かめに嵐山に向かいました。 渡月橋近辺は樹によってまちまちですが、三分から五分咲きといったところで
した。 ここ数日の日中温度の上昇で今週末あたりから見頃を迎えると思います。
渡月橋から上流に向かいますと、右手の吉兆の桜は満開を迎えておりました。
吉兆からさらに進みますと正面の嵐亭の前で道が右に折れ天龍寺の塔頭の宝厳院の春夏年二回の特別拝観が行われ
ております。私は秋にしか行ったことがないので、桜が何本くらいあるのかは把握しておりませんが、桜が終わり新緑の
季節になれば素晴らしいと思います。
宝厳院前から常寂光寺に向かってます。正面が小倉山でこの道を進みますと突き当たりが常寂光寺です。 駐車場は5.6台分しかありませんので、お
車の方はご注意ください。
常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院で山号を小倉山といいます。小倉百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって
境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれます。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされております。開基は日禎という
日蓮宗の高僧で、1595年に建立されたお寺です。
こちらの寺院もモミジで有名な寺院ですが、山門をくぐり仁王門の手前に一本桜があり見
頃を迎えております。
平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地
として当山を開きました。
開山の究竟(くきょう)院日禎(にっしん)上人は、幼くして六条の日蓮宗大本山・本圀寺(ほ
んこくじ)(山科区)に入り、わずか十八歳で同寺の法灯を継いでおり、文禄4年(1595)、秀
吉の東山方広寺大仏千僧供養への出仕(しゅつし)を拒否した日槙は、やがてこの地に隠
棲し常寂光寺を開祖したといわれており当時、歌人としても著名であった日槙上人に、隠棲
の地を提供したのは角倉了以であります。
その後、慶長11年(1606)、角倉了以が大堰川浚渫(おおいがわしゅんせつ)工事を始めると、上人は備前伊部の末檀家にあたる瀬戸内水軍旗頭、来
住(きす)一族に書状を送り、熟練した船夫の一団を招請して、了以の事業を支援しており、後に、これら船夫の技術 をもって、保津川下りが生まれました。
了以は、この後慶長19年(1614)に高瀬川を開削して二条から鴨川の水を取り入れ樵木町(木屋町)から伏見まで河道を造り、淀川から京都へ川船が入れ
るようにいたしました。その角倉了以の墓が常寂光寺の北側に位置する 二尊院の墓地にあります。
仁王門 南北朝時代の貞和年間(じょうわ 1345年~1349年)に山科の本圀寺の南門として建立され、江戸時代の初めの元和2年(1616年)に現
在地に移築されました。
仁王門から階段を上りきった所にある本堂は、桃山城の客殿を慶長年間(1596~1614)に移築されたもので、 関ヶ原の戦いの鍵となった北政所の甥
・小早川秀秋らが堂宇の建立を援助して建てられたものとつたえられます。 本尊は十界大曼茶羅です。
本堂前の鐘楼と石楠花
本堂前から見下ろした仁王門
本堂前のボケの花
本堂北側の椿です。
本堂左側に能勢妙見を分祀する妙見堂があり、説明によりますと慶長年間に起こった保津
川洪水のとき、角倉町の一人の舟夫が流れ着いた妙見菩薩神体を拾い上げ祀っていたもの
とあり、その後、鎮護の神としてこの社で祀ることになったとされております。
本堂南側の庭園で右手が妙見堂です。
本堂西側の庭園でほとんどの樹がモミジです。
本堂の南側を山沿いに上って行きますと1620年辻藤兵衛尉直信建立といわれる多宝塔が見えてまいります。
早い樹では、モミジの新芽が出始めておりました。
手前の嵯峨野の家並みと右手に双ヶ岡とその先は北山の山々が見渡せます。
多宝塔の北側に建つ開山堂
馬酔木(あせび)が可憐な花を咲かせております。
多宝塔には、霊元天皇から下賜された「並尊閣(へいそんかく)」の勅額が掲げられており
ます。
本堂
紅葉のシーズンに使われる出口は、春夏期は閉まっております。
山内を一周してまいりましたが、坂道ばかりで結構いい運動になりました。
山門北側の駐車場前の石碑です。
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